スパゲティ・ナポリタン



「ナポリタンはやらないんじゃなかったの」

 かつての仲間であり悪友であり、そしてどこか兄のようでもあるこの男は、胡乱げな視線を向けながら己の初めてのスパゲティナポリタンを指差して言う。無論、一郎とてそう言われるであろうことはわかっていたので、ふんと小さく鼻を鳴らすに留め、いいから食え、と言わんばかりに皿いっぱいのそれをずずいと押し付けた。

「やらないとは言ってねえよ。ただ、この店には似合わねえかなって言っただけで」
「なら、これはなにさ」
「ナポリタンだろ、どう見ても」

 銀のフォークをケチャップまみれにしてくるくるとパスタを巻きつけながら、飴村乱数は真顔のままそれを頬張った。
 味はどう?そもそもナポリタンってなんなんだろうな、ナポリにはナポリタンなんてパスタは存在しないってなんかで見たけど。などと、初めて作ったナポリタンの出来が気になって落ち着かなくてやけに饒舌に話しかけてしまい、とうとう「うるさいなあ、食べてるときくらい黙っててよ」と文句を言われてしまい渋々口を噤んだ。
 乱数の言った通り、今までこの店のメニューにはこの国の喫茶店文化とは切っても切れぬであろう定番中の定番、スパゲティナポリタンが存在しなかったのだ。深い理由があるのかどうかは祖父に詳しく聞いたわけではないのでわからない。けれども、一郎が思うにこの店の雰囲気に似合わないからだとか、この店が重んじているイギリスの喫茶文化に無いものだからとか、そのような理由からなのではないかと思っている。
 つまるところ、祖父はこの喫茶店でレストランのような食事を出すことはせずに、あくまでも喫茶をメインにしていたのだ。だから、一郎も祖父のメニューに無かったナポリタンを自分が始めようとは特段思わなかった。

 ところが、つい先日のことだ。店の常連のひとりであり、自分が店を継いでからも変わらずに通ってくれている、一郎よりも三つほど年上のとある女性客がぽろりとこぼした一言が、なぜかずっと一郎の耳と心に残って仕方が無かったのである。
 曰く、「もしここにナポリタンがあったら、お昼休みも通っちゃうのになあ。好きなのよね、ナポリタン」と、いうものだった。
 彼女が店に顔を出すのは、決まって午後の16時を少し回った頃だった。そこいらの会社企業よりも僅かばかり早い終業時間は、彼女が上司に不満を抱きつつもそこに勤め続ける理由のひとつだと、以前にそう言っていたのを聞いたことがある。「働く時間を一時間でも少なくして、わたしは自由な時間をだらだらとすごしたいの」とも。歯に衣着せぬ物言いや、一風変わった切り口の思考が彼女の魅力のひとつである、と一郎は思っている。目を瞠るような美人、というわけではないのだけれど、鋭さと優しさが同居したような猫の瞳や、思ったことをするすると吐き出す素直な唇、つかみどころのない彼女そのもののようなふわふわとやわらかそうな癖毛が特徴的な、笑顔に愛嬌のある女性だ。

 そんな彼女が、ナポリタンがあれば、とリクエストするような事を言っていた。理由はきっと他にもあるような気がするけれども、些か自分自身の感情の機微に疎い一郎にはよくわからないままだった。他人のことならわりと鋭いのにね、と可愛い弟たちや乱数にもよく言われている。ただ、もしも自分が作ったナポリタンを彼女が食べて、そしてそれを「美味しい!」と喜んでくれたらと考えると、それだけでこの胸はわくわくと高鳴って心が躍るような心地がするのだった。

「それに、メニュー増やせば会える時間だって増えるもんね。昼に会って、夕方にも会えたらいいなあって?はあー、青春だね〜一郎」

 いつの間に食べ終えたのか、ナプキンで口元を拭いながら乱数がわざとらしく感嘆の息を吐く。茶化すように稚気で軽薄な言動をもらすくせに、しかしこの男の所業はいつもどこか礼儀正しく作法が整っていて、それがなんとも気持ちが悪い。嫌味だとすら思う。

「それってあの子でしょ、ちゃん。いい子だよね、かわいいし」

 光に当たるときらきらと透けて輝く甘い桃色の髪をさらりと撫で付けながら、ニヤ、と人の悪い笑みを浮かべる、この男。

「な、なに言ってんだよ乱数、つーかそれより、味はどうなんだよ」
「うん、まあ、いーんじゃない?まあ、ナポリタンの良し悪しなんて僕にはよくわからないけど、普通に美味しかったし」
「そっか……じゃあ、もう少し練習した後には、店に出してみてもいいかもなあ」

 ケチャップまみれのフライパンを洗いながら、が勧めていたハインツのケチャップをまじまじと見る。
 拘りなのかなんなのか、彼女がナポリタンと言えば、それはハインツでなければだめなのだそうだ。デルモンテでもカゴメでもなく、ハインツでなければならぬと。なので、自分もそれに倣ってハインツのケチャップを用意した。まだ他のケチャップで作ったことがないのでなんとも言えないけれども、しかしなるほど、自分もこの味が好きだなと思った。トマトピューレを使った本格的なレシピもあるようだけれども、しかし喫茶店のナポリタンはケチャップよ!と彼女が熱弁を振るうのだから、それで良い。要は、自分はたださんに食べてもらいたいだけなのだから。
 これをメニューに加えたら、さんはいったいどう思うんだろう。これで昼もここに来れると、言ってくれるだろうか。ナポリタンが食べられると、喜んでくれるだろうか。やましい気持ちなどは誓ってないと言えるけれども、もしかしたらそんな不誠実な気持ちがあってのことだと思われたりはしないだろうか。
 ここのところ乱数がいちいち口を挟んでくるせいで自分の心まで俗っぽくなっているような気がして、ダメだダメだと頭を軽く振って邪念と雑念を追い払った。
 スポンジと泡をオレンジ色に染め上げながらそんな事を考えていた俺を、乱数がにやにやと人の悪い笑みでもって見ていた。

「一郎さあ、初恋ってんじゃないんだから、いい加減もっと素直に認めちゃえばいいのに」
「なにをだよ。俺はナポリタンの話をしてんだからな?──それに、恋だの愛だのは、もうしばらくは遠慮したいし」

 だいたい、知ってるだろ乱数も、あの仕打ちを。
 俺の言葉に、乱数はああハイハイそうだったね、と、同情と面倒臭さが入り混じったような顔をして肩を竦めてみせた。
 東京の大学に出ていた折、初めて女の子と付き合った。所謂、恋人関係というものを結んだわけだけれども……、まあ、それはいいか。己の恥を晒すようなものだ。後悔や未練は微塵もないけれども、面白い話でもなければ別段語りたいことでもない。また追々、機会があれば話そう。
 ただひとつ言えることは、さんが言うには、俺とその元恋人だった子との間には、さん曰くのアルデンテが噛み合わなかったらしい。言われてみれば、なるほどその通りだな、と妙にしっくりときたものだった。つまるところ、同じものを程良いと感じあえないふたりが、心などという至極曖昧で目に見えないものを共有し続けることなんてできるわけがなかったのだ。
 洗い終えたフライパンを空焚きしながら思うことは、さんのアルデンテは俺のアルデンテと同じであるか……、ということだった。

「一郎さあ、もういい加減気づきなよ、めんどくさいなあ」
「だから、なにを」