クレーム・ブリュレ



さん、もしかして寝不足なんじゃないか?珈琲もいいけど、今日はハーブティーにしようか」

 手馴れた様子でカップを温めて良い香りのするカモミールティーを淹れる青年を、ここぞとばかりにじいっと見つめる。彼の存在は、日々上司から齎されるモラルハラスメントにささくれ立った心を癒すわたしの回復薬のようなものだった。きれいな指先、きれいな髪、きれいな瞳。ほんとうに、つくづくきれいな男だと思う。

 会社の前にあるちいさな喫茶店は、一昨年の暮れにオーナーのおじいさんが隠居して、その孫でわたしよりも三つ年下の男の子が跡を継いだ。新しくオーナーとなった青年の名前は、山田一郎くん。三つしか年の差がないとは思えない程に初々しい笑顔が特徴的。
 彼はいまどき珍しく、そこそこにイマドキな外見とは裏腹にドがつく晩熟でドがつく誠実な、それはもう一級品の好青年なのだ。大学を出てすぐに親戚のおじいさんの為に、東京からこの地方へと赴き、小さな喫茶店(カフェではない、というのが彼の自論だ)を継ぐ事を選び、その際自分が専攻していた音楽の道へ進む事はきっぱりと諦めたというのだ。趣味の諸々によって都合が良かったという理由で東京にいた頃は池袋に住んでいたという彼は、今この地方の喫茶店で働くことに、なにを思っているのだろう。

「ねえ、どうして一郎くんは自分の望みをそんなにあっさりとあきらめることができたの?その若さで」

 いつだったか、そんな事を訪ねたわたしに彼はほんの僅かに目を瞠り、しかしすぐに持ち前の冷静さを取り戻すと「うーん、」などとこぼしながら逡巡した。それから、いつものように一杯の紅茶を淹れながら口を開く。

「望みっていうのは、その見方次第でどんなふうにもすり替わるもんだって、思うんだけど、」
「どういうこと?」
「あん時、俺の望みは確かに音楽をやることだったけど、それには爺ちゃんが応援してくれるって事が大前提にあって。その爺ちゃんが体調崩してカウンターに立てないって嘆いてんのを聞いて、自分の見方も変わったんだよな。コペルニクス的転回、っつーの?だから、俺は爺ちゃんを喜ばせていたかったんだなって気付いたっていうか……、音楽を続けて爺ちゃんを喜ばせたいって思いがそのまま、この喫茶店を継いで爺ちゃんの喜ぶ顔を毎日見てたい、に変わったんじゃないかなって」

 一郎くんの言葉は丁寧でわかりやすい。ふたりの弟さんがいるからというのも理由のひとつかもしれないけれども、小学生だってなるほどと一度で頷くことができるだろうほどに明解だ。ささくれた心にだって、いつでもそれはじんわりと沁みてゆく。
 あの時、度重なるモラルハラスメント行為にいい加減自分の進退を真剣に悩んでいたわたしに、一郎くんの言葉はたいそう沁みた。いっそ、自分の悩んでいることなんて寝て起きたら解決しているんじゃなかろうか、と思える程には。実際にはそんなわけはなくて、根本的な事柄は今だって日々繰り返されているわけだけれども、それでも、見方を変えるだけでそれを受ける側のわたしの心の平穏はあの頃よりもうんと保たれているような気がするから、人の心というのは不思議なものだ。一郎くん様々である。
 今だってそうだ。以前付き合っていた男に彼の本社への異動に伴なって別れを切り出されたのだけれども、その彼が先日早くも東京の本社から再び支社へ戻されるということがあった。志半ばにして舞い戻ってきてしまった彼が、さも当たり前のような顔をして自分に馴れなれしく接してくることに些かの苛立ちを覚えていたわたしに、一郎くんはいつも通りの朗らかかつきれいな瞳で苦笑してみせた。
 淹れてくれたのはダージリンだった。いつもストレートを勧める彼にしては珍しく、蜂蜜をひとすくい垂らして。ふわりと広がる甘くやわらかな香りで胸が満たされるような気がした。

「心に余裕がないと、相手の本意も見抜けないからな」
「なるほど」

 そう言われてみれば、なるほどそのとおりかもしれない。わたしはすこし意識をしすぎていたのかもしれない、と思い至った。元恋人が戻ってきたということをやたらに意識していたのは自分の方だったのかもしれない。彼の方では、栄転とまで持て囃されて意気揚々と本社に向かったものの、たったの数年で前線には向かないとばかり古巣に戻されてしまったのだ。心細さは当然あったろうし、気恥ずかしささえもあっただろう。そんな中で少しでも気心の知れたものがいれば、心強かったのではないだろうか。そう考えてみれば、確かに彼の態度には男女の情めいたところはなかったように思えてくるのだから不思議な心地だった。

「少し自意識過剰だったかしら、わたし」

 肩を竦めてそんなことを言えば、一郎くんは冷蔵庫からココットに入ったブリュレを取り出しながら「どうだろうな」と目を細めて薄く笑った。なにをするのかと見ていれば、パラパラとカソナードを振りかけて小さなバーナーで表面をこんがりと焼く。すると、とたんに甘いような香ばしいような、とても魅力的な匂いがして、思わずカウンターから身を乗り出して手元を覗き込んだ。

「物事は、無駄な固執さえ捨てちまえば単純なことの方が多いんじゃねえかなあ」

 一郎くんは戸棚からシンプルな白いお皿を二枚取り出すと、その上にココットをひとつずつ乗せた。

「……確かにね。でも、その無駄な固執で出来上がっているのがこの世の中なのよね、残念なことに」

 海外ドラマのような大袈裟なジェスチャーを添えてわたしがそう言うのを、一郎くんの大きな瞳がおもしろそうに見ていてこそばゆい。くつくつと喉の奥で笑いをこぼすような穏やかな笑い声を漏らして、彼もまた大袈裟なジェスチャーでもって肩を竦めてみせた。

「難儀な世の中だよなあ」
「ほんとよ」

 むっすりと唇を尖らせながら乗り出していた身を引いてスツールに腰を下ろせば、今度は一郎くんの方がぬっと身を乗り出して、華奢な金のスプーンが添えられたクレーム・ブリュレを差し出した。

「自分のおやつ用に作ったんだけど、ひとつどうぞ」

 笑みを深めた目元にはやさしい笑み皺が寄り、頬は照れ屋ではにかみ屋さんの彼らしくほんのりと淡く薄紅に染まっている。

「え、あ、ありがと、」
「やさしい味だぜ」

 きっと、あ、だの、う、だのと返しては、スプーンを手に俯いているわたしの方が、一郎くんよりもうんと赤い顔をしているに違いない。

 会社の前にある小さな喫茶店は、一昨年の暮れにオーナーのおじいさんが隠居して、その孫でわたしよりも三つ年下の男の子が跡を継いだ。新しくオーナーとなった青年の名前は、山田一郎くん。三つしか年の差がないとは思えない程に、初々しい笑顔が特徴的。
 彼の存在は、日々上司から齎されるモラルハラスメントにささくれ立った心を癒すわたしの回復薬のようなものだった。きれいな指先、きれいな髪、きれいな瞳。ほんとうに、つくづくきれいな男だと思う。

「一郎くん、」
「ん?」

 やさしい笑み、きれいな瞳、きれいな指先。
 そんなものを、ぼんやりとカウンター越しに眺めながらわたしはサクッと小気味良い音をたててブリュレの表面のカリッと焦げた膜を破る。香ばしい匂いがして、胸が躍る。スプーンの先はとろりとしたブリュレの海に溺れてゆく。あまくて、やさしい淡黄色のブリュレはまるで、一郎くんのようだと思った。

「あの、紅茶、おかわりちょーだい」
「いいぜ。次は、さんのお気に入りのウバにしようか」

 つまるところ、このやさしいきれいな男はもっか絶賛わたしの好きな人、なのである。