演じることを良しとして



 携帯の画面に表示された電話番号を、俺はひとりホテルで睨みつけて、アホらし、と小さく呟いた。新幹線で眠ることにもとっくに慣れたはずなのに、今日はやけに首が痛い。
 いつもならば既に、仕事が終わったという旨の連絡が来ている時間なのに、何度携帯を開いてもその通知は来ていない。珍しくやってくる別の人間からの通知に、ちゃうかったら意味ないわ、と勝手な感情を抱いてしまうほど。
 ここまで自分が彼女に対して必死になっている、と考えたことがなかった。自分も、向こうもそれなりに大人で仕事をしていて、自由な時間や自由なお金があって、なにも困ることなんてない。浮気の心配も考えたことはないし、もしするのであれば別れればいい、ああ大人、と浸っているなんて一周回って子どもすぎる。  依然痛む首を軽くさすって、一人がけの椅子に腰かけながら新幹線の中で見た悪夢について思い出す。この夢は覚えておこう、という類の夢は起きたら一秒ごとに恐ろしい速さで薄れていくくせに、今日の悪夢はたちが悪い。
 ささら、ごめんね。という声が見慣れた、やけにリアルに浮かぶ俺の部屋で響いた。謝っているくせに彼女がその決断を覆す気は毛頭なさげで、一度決めたら何事もやり通す、俺の好きな真の通ったあの顔で、荷物をまとめる彼女をただじっと見ていたのだ。最後に、彼女がつけていたよくわからないキーホルダーを外してすっかり簡素になった鍵がテーブルに置かれるカチャン、という音。
 俺は夢の中で、引き留めることも、なにかを問いかけることもなく、ただそれを見つめていた。あの雨の日のように。ただ無力だ、と感じたし、全てが無駄なようにも思えた。引き留め、懇願することも、声をかけることも、なにもかもが。

「あかん」

 ホテルまでの道中にコンビニで購入したお茶を部屋備え付けのコップに注ぎながら、何度も何度も携帯に視線を向けてしまう。夢がこんなに生々しく残る感覚は久しぶりで、これでは連絡が来るまで俺は明日の準備もままならないとしか思えない。
 なにが大人や、と自分を叱咤して一度椅子から立ち上がった途端に聞き慣れた通知音が響いて、ぱっと振り返る。携帯を手に取って画面に指先を滑らせると、「家着いた、疲れた。簓はまだ移動中かな、お疲れさまです」といういつもと同じ淡白な文字。いつもは仕事が終わったらすぐに連絡するくせに今日は家に着いてからか、一度嘆息するも、確かに時計を見るとまぁそれくらいの深い時間で、指先が返信より先に電話の履歴の上の方にある彼女のフルネームをタップしていた。家ならば、すぐに繋がるだろう、いや、あまり携帯を見ない彼女が気付かない可能性も十二分にある。コール音をやけにひやひやした気持ちで聞きながら、俺は呼吸を忘れていた。
 メッセージを促す機械的な音声がすぐ真後ろに迫ってきた頃、電波がプツン、と音を立てる。

『――もしもし、どうしたの、びっくりした』
「なんでお前仕事終わった、って連絡ちゃうねん」
『たいして変わらなくない?電車がさ、ちょうどいいのがなくなるからバタバタしてたの』
「……へえ〜」
『そっちは?電話かけてきてるってことはもうホテル?』

 ん、と、本当に言いたいことがうまく出てこない俺の言葉は一瞬濁り、「ああ、ホテル着いとる」とそれを覆うように言葉を被せた。少しの沈黙、本当ならば今すぐに顔が見たい、なにも変わらない瞳で俺を映して欲しい。横暴と女々しさの混在したその感情を言葉にする勇気も、体力も残らない俺は、ただ繋がっている電話の中で流れる沈黙を聞いていた。

『なんかあったの』
「……なんで」
『わたしの簓センサーがなんかあったって言ってる』
「なんもあらへんよ」
『ふーん、ならいいけど、ほんとに大丈夫?』
は、なんもない?」

 問いかけた自分の声が、余りにもただの幼子の声で、疑問符は頼りなく、心細く消えていく。
 俺に問いかけるつもりではもう無くなったらしい彼女が、自問自答するように、ほんと、どうしたの、と小さく呟いた。酔っているとでも言えば良かったのだろうか、嘘をつく余力も残っていないし、正当性くらいはまだ保持していたい。

『簓?こっち帰ってきたら、ちゃんと会おうね、五分でも、十分でも。あ、嫌じゃなかったら』
「嫌ちゃうわ」
『なら、会おう。最近会えてないし、声も久しぶりに聞いた気がする』
「確かにな、」

 そういえば、忙殺の日々でお互いの生存確認は活字だけだったようにも思えていたし、電話をかけるのも久しぶりだった。俺が自分からかけることもあまりない上に、彼女が俺に寂しいという言葉や、行動を取らないからだ。律儀に、今平気?と問う連絡をしてから電話がかかってきたり、唐突な電話も出れなかった時には「なんとなくだから折り返しは不要です」なんて活字での連絡があったりもする。俺はいつもその文面を、へえ、とか、ふうん、とか思いながら見て、……ああ、だからか。

、」
『なに?』
「家やんな」
『そうだけど』
「俺の事好き?」
『……好きだよ、簓は、わたしが簓の事好きなように見えない?』

 今更なんでと馬鹿にされるのかと思った質問に、彼女は驚くほど真面目な声で、そして最後には疑問符をまたつけて返してくる。疑問符に疑問符で返すのはずるい、となにかの本で誰かが書いていた気がするけれど。

「分からんてそんなん」
『わかってよ、それくらい。バカ』
「関西人にバカはあかんて」
『あかんくない。だって好きじゃなかったら、こんなに会えないのも、我慢しない、し』

 一度断線した声を繋ぐのは、震えた呼吸。
 俺は今日、悪夢を見た。彼女がいなくなる悪夢を見た。本当に無意識下である、睡眠の中でだけ。
 それまでは一度も考えたことがなかったし、無敵であるというに近い程に信用しきっていた。じゃあ、彼女はどうだったのだろう、夢の中で見たことはあるのだろうか。眠る前、ふとした瞬間、不安を押し殺して、俺を気遣って有触れた活字だけの連絡で終わりにしてくれていた、なんて。想像したことがない。
 俺は俺の視点でを見て、の視点から見ることなんて考えたこともないくらい、彼女の我慢と愛情の上に成り立った関係に満たされていた。

「……俺な、今日、に鍵返される夢見てん」
『……うん』
「最近、会うてへんかったし、からあんま連絡来えへんからそない夢見たんかなって、今思った」
『だから電話かけてきたの』
「そう、せやから、俺がもうこんなどうでもええ悪夢を見いひんで済むようにちゃんとしてな」
『……どういうこと』
「なんか、もっと、電話とか、どうでもいい連絡とか、会いたい、とか、言うて。もっと、ちゃんと俺に」

 「今までさんざんに甘えてたから、もっと俺に甘えて欲しい」、電話の向こうの彼女の顔は分からないけれど、言葉だけはするすると出てきた。先程より体温のある沈黙が開けた時、彼女はちいさく「ふふ」と笑った。霧が晴れるように、彼女の表情も、服装も、指先も、電話を持つしぐさもすべて、まるで目の前にいるように見えた錯覚を覚える。

『悪夢を真に受けたわけね』
「そんなんちゃうわ」
『わかったわかった、じゃあもうちょっと連絡するね、簓』
「俺が強請ったみたいな言い方止めろや」
『そうだね、わたしもほんとはもっと話したかったし、』

 そう言葉を繋げたくせに、彼女は「あ、でも明日何時起きなの」と俺に問いかけるから、あまり変わっていないのかと思いつつも時間を告げると、少しだけ喉を鳴らして、まるで自分の知らない言葉を読み上げるような不器用さで「あともうちょっと話すことないけど話そう」なんて言ってくる。話すことがないは余計やろ、と思いながら俺は頷いて、備え付けの時計の光を眺めていた。
 「会いたくなるから、わがまましたくなるから嫌だったんだけどね」、自嘲気味な声が俺の耳に届いて、俺はぼんやりとそれを聞いている。会いたいな、と重ねるような声に、俺は先程一人の部屋で感じていた愚かしい葛藤の時間を、悪夢を、今やきちんと処分できることに気付く。

「俺も会いたいわ」
『……へへ、この電話、録音しとけば良かったな』
「余計なこと考えんでええわ」
『ええ〜、簓のそういうのレアじゃん、そんなんわたしか躑躅森くんかくらいしか聞けないよ』
「こんなんいつでも言うたるわ、めっちゃ好きやしな、のこと」
『はぁ!?』

 聞いたことのない大音量が電話の向こうで聞こえて、もうテレビ電話のようにすら思うその声だけで分かる向こう側の風景に俺は笑う。笑わないで、と彼女が言いながら、きっと熱を持つ耳朶を触ったり、テーブルにあるリモコンのボタンをなぞったり、そういうどうでもいいことをして、自分を保とうとする姿。
 愛情の安売りのようだと思っていた言葉は、別に安売りではなかったし、必要よりもずっとずっと不足していたらしい。次に会うときは、彼女が先程よりどうしようもなくなってしまうような言葉を、俺はきちんと顔を見て伝えたい、と考えた。
 伝えるべき、でも、伝えなければならない、でもない、ただ単純に俺が伝えたい、というそれだけで。