KOOL



 自分の笑い声が彼の部屋の中で軽薄に響いていることに安心して、もう一度同じように笑った。簓がわたしの分の飲み物を無造作にテーブルに置いてから、「で、追い出されたん」と同じく軽薄に笑った。
 彼とは結構長い付き合いになる、というか、すごく長い付き合いだと思う。初めて会った当初はまったくなんとも思わなかったのに、五回ほど会った時唐突に、すごく好きだ、と気づいてしまった。
 その時、簓とそこまで親しくはなさそうで、けれどよく飲む面子にたまに入るような男の子がわたしに連絡先を訊いてきて、すぐに付き合うことにした。相談という名目で簓と二人で会うようになったらその男の子が浮気を疑う様になったから、別れた。簓とその男の子は未だに多少なりとも交流が続いているようで、けれど、わたしは別れた後から一度もその男の子の名前を出すことはない。その後は職場の人と付き合ったり、誘われた合コンで出会った簓に似た笑い方をする男の子と付き合ったりもした。
 けれど、どの男の子も結構嫉妬深く、執拗に連絡を取り合うことを求めたり、わたしがした浮気やそれに準じた行為をきちんと見つけて詰められたりする。目敏いんだよなあ、と二年ほど前の秋口に零したら、「お前、めっちゃ雑やんけ」と簓がグラスを傾けて笑ったのを覚えている。

「もった方やなぁ、今回は」
「まぁね」
「どいつもこいつも見る目あらへんなあ」
「そうなんだよね」
「いやお前が言うな」
「申し訳ない」

 簓の淹れてくれたあたたかいお茶はまだ湯気が立っていて、マグカップを掴もうとして無造作に人差し指が触れた瞬間、予想以上の熱さに脊髄反射で身体ごとびくりと跳ねた。「相変わらず雑やなぁ」と言いながら簓が煙草を少しばかり燻らせて唇の端を曲げる。トラガスに付けられたシンプルな黒いピアスが艷やかに光る耳朶を見つめて、僅かにひりひりと痛みを訴える人差し指を冷ますように手を勢いよく上下に振る。つるんとした綺麗な形の灰皿に慣れた手つきで灰を落とす簓の指先を見たあとで、煙草の香りを深く吸い込む。
 煙草の香りが染み込んでいる簓の洋服を、例えば彼の肩口から吸いこむことが出来たら、こんなくだらない日々はすべて捨てることが出来るだろうか。一生そんな日が訪れないことは、自分が一番よくわかっているけれど。
 だから、わたしは簓の家に行って、彼の副流煙を吸い込んで、ちょっとだけ取り留めのない話をして、家に帰る。もちろん彼に恋人がいるときはそんなことはしない、持ち重りのしない女だからだ。別れたな、とか、あんまりうまくいってないな、とか、そういう僅かな隙間を、彼の瞬きや携帯を触る指先から感じ取ってタイミングを推し量る。きちんと推し量った後で、久しぶりに行ってもいい、もしくは、飲みにいかない、みたいな内容をなにも知らないかのように装って連絡する。
 タイミングを図るのがどんどん上手くなっていくせいか、簓がわたしの誘いを名目上仕事以外で断ったことはないし、その場合彼は必ず代わりの日にちを決めてくれる。持ち重りのしない、長い付き合いの、ダメな友人、だからだろう。

「なんで怒られたん」
「なんでだろう……」
「え?浮気してへんの?」
「うん、そういう年齢でもないし」
「なんや珍しない?何、本気で付き合っとった?」
「この顔見てよくそんなこと言えるね」

 わたしがあっけらかんとした自らの顔を指さすと、「たしかに」と納得した面持ちで簓がしみじみ頷いた。
 名目上の今回の彼氏は一年ほど付き合っていて、結構怒りっぽい人だった。適当に受け流して付き合っていたのだけれど、今日はなんだかそれすらも煩わしくなってしまい、ちょっとばかり言い返してしまったのだ。みみっちくお会計がまめだとか、洗濯物の畳み方が汚いだとか、思っていたことをつらつらと吐き出してしまい、いたくプライドを傷つけられたらしい。というか、怒りっぽく且つプライドの高い男だったので、わたしに反撃された時点で追い出されることは決まっていたのだろう。
 底冷えする深夜に、今となっては元彼になるであろう男の家から出て来たわたしはたいした荷物も置いていなくてよかったな、と思いながら簓に電話を掛けた。「今家にいる?」「うん」それだけの会話で簓は「あと何分で来るん」とわたしに尋ねた。瞬間、タクシーを拾ったわたしは救世主のようなタクシーの後部座席に腰掛けながら、「一時間かからない」と答えていた。

「一年間浮気せえへんかったん」
「うーん、……え、してない」
「ほんまに?えぇ、なんで別れたん?」
「まだ別れ話してない」
「するやろ」
「するけど、まだ彼氏だし」
「彼氏おらんほうがなんか良さそうな感じすんねんけどなあ」

 吸殻を灰皿にぐりぐりと潰すように押し付けながら簓が呟くと、薄い灰色の煙もふわりと空中に漂った。煙草の残滓すら視界に焼き付けようとするわたしが「どうなんだろう」と意味もなく呟いたあと、煙草を吸いたい、とふと思った。むしろ今までどうして気づかなかったのだろう。
 煙草に関しては含蓄もなくとことん疎い上に、簓に関しての事柄以外は概ねどうでもいいと考えていたけれど、彼を形造るものの中で特に手っ取り早いのが煙草のはずなのに。
 テーブルの上に置かれた煙草の箱をわたしは許可なく勝手に手に取って、ぐるりとパッケージを見回す。「お菓子とちゃうで」と呆れたように言って簓が煙草をひょいと奪うけれど、一応銘柄というやつは元々頭に入っていたので大丈夫だった。これの名前をコンビニで言えば買えるのだろうかと考えながら、慣れた手つきで二本目の煙草に火をつけた簓を見る。美味しそうでもまずそうでもなく口を付けて、煙を吐き出した後で、彼は軽く首を傾げて「吸う?」とわたしに火をつけたままの煙草を差し出した。落ちそうな灰を軽く落とした後で、わたしが頷くのを待たずに彼は煙草を差し出して、断ることもできずについ受け取ってしまう。とりあえず見様見真似でフィルター側の色が違う部分を三分の一程度咥えたものの、息を吸い込んでも煙は身体のどこにも落ちていかず、ぶわっと口から吐き出されていく。

「へったくそ」
「だ、って、初めて吸った」
「あー……、でも女やったらそんな感じかあ」
「周りの友達もあんまり吸わなかったし」
「へえ。もっかい吸うて」
「うん」
「……へったくそ」

 簓が、ぶわり、と吐き出したわたしの灰色の煙を見てバカにしたように笑いながら新しく箱から取り出した煙草に火をつけた。改めて彼がうまく煙草を吸うのを見ていたら、指先が少しずつ熱くなっていく。剥き出しで彼に見惚れてしまう事実を隠すように灰皿に灰を落とそうとすると、簓がそれもまた「ド下手やなあ」と言ってけらけら笑った。どこがそんなに面白いのかも分からないけれど、灰が落ちないように綺麗に、でも転げるように簓は笑う。心底楽しそうな子どもみたいに簓が笑うから、まぁいいか、と思うと指先がすぐ空っぽになる。
 手品のように奪い去ったわたしの煙草を灰皿に押し付けた簓が「向いとらんねん。お前タバコ禁止な」と先程までのふざけた調子が嘘のように真面目な顔でわたしを見た。まるでわたしの人生のことまでも言われているみたいで、喉の奥と心臓が撓るように軋んで、そこでやっと、口の中が苦いことに気が付いた。
 湯気のなくなったお茶に手を伸ばして口をつけるとまだ飲むのには早くて、舌先に感じた熱から逃げるように「あっつ」とまた口を離すわたしに、簓は呆れたようなため息を平然と笑顔で吐き出した。