アイを暗誦



 にぎやかな食事のリポートの声がどうしてか騒々しく不愉快に感じ、わたしはテレビの電源を落とした。
 浅はかな嫉妬なのか、忙しく、あまり会えない簓への怒りなのか。あまり器が大きい女ではないと自分でわかってはいるものの、彼の前でそれを出さないようにしようと努めれば努めるほど、ひとりでいるときのフラストレーションは溜まっていく一方だ。
 簓から気が向いたときに送られてくる連絡に返信しただけで、自分からは何も送ることはない。追われるより追いたい、なんて簡単に彼は言ってしまうから、会いたいなんて、愛しているなんて口が裂けても言いたくない。こんなわたしを、本当のわたしを、剥き出しの感情を彼が丸ごと食べつくしてくれるなんてありえるわけがないと、自惚れるまでもなくわかっている。
 だからこそ、彼がいなくても生きていけるという顔をして、わたしは日々を過ごす。簓の生きている時間すべてに興味がないふりをして、料理を作り、部屋を片付けて、仕事をして。
 あ、のつく言葉は全て彼に対してで、会いたい、愛してる、こんなの馬鹿みたいだ。
 携帯を開いて、先日友人と訪れた水族館の写真をぼんやりと見返して、自分は彼がいなくてもなんとか楽しくやっている、というその事実を噛みしめていると、唐突に画面が切り替わる。わたしの決意に張り手をするように浮かび上がる”白膠木簓”の文字。通話のボタンを押して耳に当てると、聞こえてくるのは少し上気したような顔が浮かぶ彼の声。

『今日、休みやろ』
「うん」
『仕事、巻いて今終わってん』
「お疲れさまです」
『なぁ、俺、今どこにおると思う』
「わかんないよ、こっち来てるの?」

 彼はわたしの家の最寄り駅の名前を上げると「なぁ、今から出れへん、飯だけでも」と言った。「ええ、急だよ、テレビ見てたのに」わたしはひどく間延びした、くだらない声を上げた。乗り気ではない言葉と声色とは裏腹に、既に身体は勝手にクローゼットの前に立っていて、あと何分で支度が終わるのか頭の中で必死に考えている。自分の顔が、髪が、あと何分で彼の目の前に立つことに耐えうる状態なのか、必死に回転させていることを彼には決して悟られないように。

『すっぴんでええから』
「……それは公害になるから嫌、女として嫌、ただただイヤ」
『俺は気にせえへんけどなあ』
「駅のどこにいるの」
『いつものおる喫茶店入ったわ』
「じゃあ、……三十分、待ってて」
『ん。急いでこけへんようになぁ』
「なら一時間かけていく」
『はは、リョーカイ』

 「じゃ」『ほな』そう結んで通話を切った。切った瞬間にはクローゼットに入っている、彼と会う時にはまだ着ていない洋服の中で一番優れていると思われるものを取り出す。着替え、そして、顔を洗い、ぼんやりとした感情に、浮足立ち緩んだ顔に喝を入れ、化粧水を叩きこんで、ピアスをつけて、化粧を始めた。黙々と毛穴が隠れていく自分の肌や、色づく瞼、通ったように見える鼻筋、変化していく自分の顔。そのくせチークをはたき込む必要もないほど色づいた頬にそっと桃色を乗せて、髪の毛だけは前髪をアイロンで巻くに留めて特に手をかけず高い位置でポニーテールにする。ゆらゆらと揺れるポニーテールが無造作なように、剥き出しの首筋をあらわにした。
 「ダッシュで身支度整えて」、ドリカムの曲が頭の中でぐるぐると回るものの、駅前までの交通手段は徒歩だったりする。鞄の中にはいつもと同じものが一揃い入っていることを確認して、鍵を持ち、家を出た。戸締りオッケー、エレベーターの中で手鏡を取り出してさっと口紅を塗り、ヒールの音を鳴らしてエントランスを抜けた。
 スタイリング剤を使わなかったせいでうまくカールしなかった前髪を何度か指先で弄びながら、わたしはまっすぐ喫茶店へと向かう。携帯を触っているのか、ネタ帳でも書き留めているのか、はたまた仕事のなにがしかの書物に目を通しているのかわからない簓の処まで。急いだせいか、あるいは信号が味方だったせいか、彼が待つ喫茶店には存外早く到着して、携帯を触っていた簓がぱっと顔を上げた。

「久しぶりぃ」
「……なんでこう急かなぁ」
「こないなことできるん、だけやで」
「そう、あ……アイスティー、ストレートで」
「コーヒーはやめたん」
「直ぐ出るでしょ、ご飯食べたいって言ってたし」

 メニューを見ずに注文したわたしに特別な感情を抱くことなく去っていく店員の背中を見送った。メロンソーダのような毒々しいまでの鮮やかさを持った緑の髪が、トラガスにつけているピアスの黒色が、店内の照明に反射して鈍く光り目に眩しい。
 髪色の鮮やかさよりもくっきりと簓は微笑んで、「分かっとるなあ、流石」とわたしを称賛する。
 わたしはひとりで立っている、ひとりで生きている、簓がいても、いなくても、変わらずに生きていく。本当にそれが出来る人はこんな風に改めて覚悟を持つ必要がないことをわたしは重々知っているけれど、だからこそ、わたしは覚悟する。

「何食べたい」
「んー、なにがええかなあ」
「なんでもいいよ、まだご飯食べてなかったし」
「また!また食うてへんの」
「別に、ちょうど食べようと思ってたよ」
「ハァーー、せやったら、どっか出るか」
「え、何時までいるつもりなの」
「明日」
「明日?」
ん家、泊まってくけど、あかんの」

 はい出ました、と思いながらも、そんな予感はしていたのできっちり部屋を片付けて出て来ていた。ご飯を食べていなくてよかった、と改めて思いながら、運ばれてきたアイスティーに口をつける。カランと氷が揺れて音を立て、少し遅れた夏の声を聞いたような気がした。
 簓が携帯を触りながら、「なぁ、何食べる」ともう一度わたしに問いかけてきた。本当は一番良くない「なんでもいい」という言葉を返すと、彼はまるで最高の案を思いついたように携帯をそそくさとしまった。「それ、ゆっくりでええよ」なんて言葉をおまけのように添えて。

「……家で食べるのね」
「あかん?」
「いいよ、なんかそんな感じした」
「なぁ」
「うん」
「ちょっとこっち、」

 結局これだ、という感情と、やはりふたりきりの場所が一番落ち着くから悪くはないのだろうというふたつの気持ち。半分ほど一気に減らしてしまったアイスティーを名残惜しくストローでゆっくりとかき混ぜると、簓がひょいと猫のように手招きをした。わたしが彼の手に吸い寄せられるように身体を倒すと、彼の指先がわたしの髪の毛に触れる。

「そない俺に会いたかったん?」

 少し跳ねていたらしい、結い上げた髪のトップの部分にゆっくりと触れて「結びなおした方がええかもな」と簓は笑った。鏡台の前で自嘲気味に思い出したドリカムの曲のようだ。どんな顔をすればいいのかわからないまま顔を上げると、簓はにやにやとチェシャ猫のように笑っていて一気に肩の力が抜けてしまう。100パーセント知られていないと驕っていたわけでは決してないけれど、結局、彼に骨抜きなことなんてお見通しだったわけだ。

「別に会いたくなかった、十分連絡とってるし」
「へえ、そうなん」
「うん」
「俺、ちゃんがポニーテールしてんの、結構好きやで」

 二等辺三角形の、まるで扇子を象ったような小さい緑色の石が嵌ったヘアゴムで髪の毛をそっと結い上げるその仕草を、簓はただ見て笑っている。
 会いたくなかった、好きじゃない、十分な連絡、それら全てをきっと反対の意味に捉えている簓に、正解!なんて言うほどの笑いのセンスがないわたしはただ丁寧に、ゆっくりとポニーテールを作って、彼と視線を合わせる。オーケーと言わんばかりの簓の視線に小さく頷いたわたしは一気にアイスティーを飲み干した。簓が噴き出すように笑うのもお構いなく伝票を掴んで、ポニーテールを揺らしてレジまで向かう。
 会いたかった、愛してる、簓を、世界で一番に。
 本心を言わなくてもきっと理解されてしまっているのならば、あべこべの言葉くらい使ったって構わないだろう。
 勝手にレジへ向かうわたしをどやすことなく、カップの中身を飲み終えた簓が荷物を持って、ゆったりとこちらへやってくる。トラガスにくっついたシンプルで真っ黒なピアスを、わたしが数時間後にそっと触れることをわかりきった顔で。