暮れの慈光



 長雨が終わり、やけに気分も晴れやかになるとある日、予想より早く仕事が終わった俺は約束の喫茶店へ彼女より先に到着していた。
 クリームソーダがないのであれば、と特にこだわりもなくメニューの一番最初に目に入ったアイスコーヒーを飲みながら携帯を触る。送られてきていたラインの返事をしたり、自分が誰かに送ってみたり、気まぐれにストローでグラスの中をかき混ぜると涼やかな夏の音がした。
 約束の時間の五分程前に待ち合わせ相手から「少し遅れる、ごめんなさい」という律儀な連絡。少しということはまぁ長くても十分だろう、といつも待ち合わせ時間に到着しないことを”遅れる”という生真面目な彼女の文章を見て考える。ポップアップで現れた画面をスワイプで消して、俺はネタ帳にしていたノートを閉じるとつけていたイヤホンを外すべきか逡巡して少しだけ音量を上げた。上機嫌なアップテンポの音楽がまるでぶつかり合う氷みたいに小気味よく鼓膜を撫でる。携帯をテーブルに置いて目を閉じて、中盤だった音楽が一周と半分ほど繰り返したあたりで、じわりとした振動がこちらへ近づいてくる。
 簓となら好きな靴が履けるからいいね、と、いつだったか彼女に言われたことがある。アラサー間近の成人男性としては別段高身長とも言えず平均よりやや高い程度の俺の身長でも、彼女が言うには丁度いい、らしい。今日も彼女の立てるヒールの振動を特別敏感に察知した俺は、携帯の画面に指を滑らせて音楽を停止させると耳からイヤホンを引き抜いてくるくると指に巻くようにして束ねながら顔を上げる。音楽一周半分、薄く浅く眠っていたらしい脳がまた淡く揺れていた。

「お待たせ。あ、アイスティ下さい。ストレートで。」
「おつか、……れ?」
「寝てたの?遅れてごめんね」
「いやそれはええねんけど、……え?」

 慣れた様子でアイスティを頼んで、暑いねと語りかける代わりに羽織っていた薄着のコートを椅子に掛ける。
はじめ、彼女が余りにもあっけらかんとしているので髪を縛っているのかと錯覚してしまった。普通に考えて、髪を縛っていたら髪と肩の間に横一閃の隙間が出来るはずがないというのに。俺がストローをうまく掴めないでくるくるとグラスの縁をなぞるように遊ばせてやっと一口、氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーが喉を通過していく。
 ステンレス製のシロップ入れと、V字型のグラスに入ったアイスティーが運ばれてきた。店構えもそうだと感じてはいたけれど、総ステンレス製で平坦な蓋のついたシロップ入れはまさに彼女の好みである。なみなみと入っているシロップを確認して、ひっそりと薄く笑んだ後、ほんの少しシロップを垂らす。淡い透明の線が回転するように明るいオレンジに近いアイスティーと氷の隙間の中に混じっていく。その様を楽しくて仕方がないと言わんばかりの瞳で眺め尽して、ガムシロップが底に辿り着いてからゆっくりと彼女はストローでかき混ぜる。あつい、と小さく零して、見慣れない短い髪の毛を耳から首筋まで、指先で強くかき上げた。少し前だったら髪で隠れて見えないくらい、小指の爪よりも小さな丸い石のくっついたピアスが、気恥ずかしくなってしまうくらいはっきりと俺の目に入る。俺以外の人間でも見えるきらきらとした緑色の丸いそれは、切られた髪のせいでやけに目立っていて、なぜか見てはいけないような気すら覚えた。

「久しぶりじゃん」
「あー……、髪、どうしたん」
「失恋」
「……嘘やろ?」
「嘘、簓も意外とそういうの騙されるんだね」

 まるでどこぞの小説家のように流れるような嘘をつき、結構バッサリいったでしょ、と毛先を摘まんで、子供じみた微笑みを浮かべた彼女は首を左に傾げた。
 確かにそれまでは鎖骨をゆうに越えてポニーテールを結べる程に長い髪を胸元の辺りでゆるく巻いていた。長い髪も彼女によく似合っていた、というか、初めて会った時からずっと長かったぶん、短い髪は未だに俺の記憶と視界に馴染まない。いつ切ったのかは知らないけれど本人はもうすっかり慣れているようで、逆に未だ驚いている俺に対して驚いているようだった。

「や、でも、ええと思う」
「そう?」
「あのー、俺が言うんもあれかも知らんけど、長いときより似合うてるな」
「ほんと?嬉しいー」

 おどけるように身体を軽く左右に揺らした後で、真っ白のストローに口をつけてアイスティーを二センチ分くらい飲む。有名なショートカットヘアの女優の名前を上げて、「ああいう感じにしたかったんだけどね」と言った。それに比べては些か長いかもしれない髪は、けれど彼女によく似合っている。
 もっと短い髪も、もう少し時間が経ったらボブカットくらいになるその時も俺は少し、ほんの少し気になった。短い方が良く似合っているというのは嘘ではないけれど、俺がひっそりと見ていたささやかな彼女のピアスがこれからは剥き出しになって不特定多数の誰かの目に留まるのかと思うとどこかつまらなかった。
 まだ氷が頑張っているお陰で味は薄く、それでもきちんと冷たいアイスコーヒーをいつもより多めに飲み干すと頭の隅っこが僅かにきんとする。

「簓に褒められると自信つく」
「ええ、なんでぇ?」
「えー、女子のお洒落にも詳しそう、詳しいっていうか、センスあるっていうか」
「買いかぶりすぎやって」
「当分は伸ばすの止めようかな」

 鼻歌でも歌いだしそうなくらいにご機嫌な顔で彼女が言って、俺はすぐに返事をするのを忘れてしまう。
 そういえば、なんでこんなことを考えているのだろう。似合う髪型をすればいいし、したい髪型をすればいい、ただの友人である彼女にそんなありふれたアドバイスが出来ない自分がいる事実に気づく。
 俺の詰まった言葉に気付いているのかいないのか、メニューを読みながら彼女はアイスティーを口に運んでいる。耳にかけてもするりと逃げるように落ちてくるようになった短い髪と、剥き出しの耳朶、耳の曲線にやけに視線が吸い寄せられる。もう少し寒ければマフラーかなにかを巻いて隠してしまいたい、という感情にふたつほどの名前が付くのだと、ようやく理解した俺は茫然とした。
 思えば、初めてまともな会話をしたときからこと彼女に対してはお得意の話術も上辺だけの愛想笑いも発揮されることはなく、こんなことでは芸は上方どころか養成所の素人芸にも負ける羽目になってしまう。どうにか打開策を、と思ったところで時既に遅し、手遅れ以外のなにものでもなかったのだった。
 俺は苦くも冷たくもまずくも、もはや薄いのかも分からないアイスコーヒーに、彼女がもう使わないであろうガムシロップをたっぷりと入れる。ストローで一気にかき混ぜると氷がないぶん透明の螺旋はしゅるりと消えて、表面にゆるく渦を巻くそれを勢いのまま一気に飲み干す。飽和したシロップで蜂蜜のようにとろりと粘性の増したそれはまるで喉を爛れさせるかのように強い刺激で、ひどい甘さにぐらりと眩暈がした。