ガラパゴスの彼



 彼はおなかにガラパゴスを飼っている。
 そもそもガラパゴスが飼えるかどうかなんてどうでもいい。左馬刻さんの中身はガラパゴス諸島みたいだ。外からはまったく見えないけれど、きっと彼の中では彼にしかわからない感情の進化が、こうしている今もぐるぐると生じている。たとえばわたしの言葉ひとつにしても、銃兎さんの言葉ひとつにしても理鶯さんの言葉ひとつにしても、一郎くんの言葉ひとつにしても、左馬刻さんの中に入ればたちまち膨張して、元のかたちがわからないほどになって、すぐに彼をぱんぱんにしてしまう。そうしてそれは時々ぱちんと弾けて、粉々になった破片が彼を傷つけるのだ。
 けれども傷ついたときに傷ついたとは決して言わないし、表情を変えることもないのだから、たとえばわたしの何気ない一言がいつ何時どんなふうに左馬刻さんを悲しくさせているのか、ずいぶんと長い付き合いになるけれどわたたしにはさっぱりわからない。一応いっとう近くにいる自信はあるのに、情けない話だった。

「うわあ、左馬刻さんの手冷たい!」

 末端冷え性なんだよ、なんて返しは前も聞いたのよ、ずいぶん前に一郎くんにもおんなじこと言ってたもんね。一郎くんが左馬刻さんを心配していないなんてことじゃない、でもわたしは一郎くんや銃兎さんや理鶯さんとはすこし違う次元で左馬刻さんを心配しているから、彼にもひとつ違う次元の返答を期待していたのに。
 わたしはいっぱい左馬刻さんを特別にするけれど、左馬刻さんはわたしをあまり特別にはしない。けれどもなんにも不満じゃない、だって満たされてはいる。特別でなくたって、大切であれば十分なしあわせだ。
 左馬刻さん、冷え症はね、血液がドロドロとか、動脈硬化、筋肉が凝ってるとか。あとストレスも、原因なんだよ。わあ左馬刻さんの場合ほとんど当てはまりそうだねって笑ったら、なんなんだよってばしりと頭を叩かれた。いやいや左馬刻さんこそなんなんだって話だから。いくらわたしたちハタチ越えてるからって、お酒は気をつけなきゃだめだよ。だって左馬刻さん、最近お酒進みすぎじゃないの、銃兎さんと、とかさ。ねえ。
 それよりさ、ストレスで冷たくなるんだよねえ。左馬刻さん、なにか抱えてる?なんて聞くのはそりゃもうナンセンスだ。今までずっとずっとなにかを抱えてきた左馬刻さんが素直に抱えてるなんて言うはずもないし、きっとその一言だけでも、彼の中ではむくむくと膨らむし、ともするとまた破裂してしまって、彼の手はさらにさらにひんやりしてしまう。

「ほっとけや」

 それはそれは難しいお願いだ。何杯目だかわからないウィスキーのロックグラスを呷った左馬刻さんは、むすっとくちびるを一文字に結んだ。つっぱねるときのしぐさ。やめろやめろと遠ざけておいて、左馬刻さんはへらへらと笑うわたしの顔を、どんなふうに進化させたんだろうか。
 彼のガラパゴスが沈まない限り、いやいやたとえ沈みきってしまっても、わたしは左馬刻さんに構うのをやめられない。悲しみと怒りを燃して、彼の紅い眼には何度でも凛々しく燦々とした火が灯る。仲間を護るために、居場所を守るために、心で瞳で炎を燃やしてマイクを握る手。この手で一生懸命に左馬刻さんの手を握るし、冷たくて融けそうに見える、あたたかくてやわらかくて白いところにやらしいことをしたり、薄いくちびるにキスをしたりもする。何度も。

「ほっとけないよ」

 こんなにも大人で、けれどこんなにも厄介で面倒くさくてこんなにもうつくしい。彼のめんどうくささは、わたしにとってどうしようもなくたまらない愛おしさに直結する。ちょうど鍵穴に差した鍵がきれいに回るみたいに、かちりと音を立てるのはいつも左馬刻さんの愛しいところだ。そんなことを知らない彼はウィスキーのボトルを手にとって、それがすっかりからっぽであるのに気がついた。ほんとに、飲みすぎだって。わたしが止めるとふんと鼻を鳴らす表情はたいへんに子どもじみている。左馬刻さん、と呼びかけるわたしに幾分か酔いが回っているらしい彼はくだんの愛おしさでもってにんまり笑ってみせた。するり、と白くて骨ばった陶磁みたいな掌が頬を這う。


「なあに?」
「ずっとそこにいろよ」
「うん」
「裏切ったらブッ殺すからな」
「いいよぉ」

 わたしが仕事できなくなるくらいまでぼっこぼこにしても、おっけーおっけー。なんて。ほんとうはわたしが左馬刻さんを傷つけたかもしれないぶんだけ殴ってくれたっていいのだけれど、左馬刻さんはびっくりするくらい、まるでかみさまみたいに優しいひとだから、きっとそれはできないって怒る。
 わたしとしてはプラマイゼロになりたい。そのためには、時折飛び出す左馬刻さんのわがままを丁寧に聞いてあげることが大切だ。いいよ、いいよ。左馬刻さんの破裂しそうな不安にちいさく針を刺して、しゅう、と空気を抜く魔法の言葉。でれでれと笑うのは平生わたしの役目だったけれど、この時ばかりは心の底からしあわせそうに笑う左馬刻さん、酔いの回った彼の方がよりわたしの数万倍でれでれしている。

「ずっといろよ」
「いいよ」

 誰に向けて言っているのかってそれは間違いなくわたしに向けた言葉だったろうけれど、左馬刻さんの薄い膜が張ったような鮮やかな紅い目から、たしかにどこを見ているのかはわからずじまいだ。
 わたしがもう一度重ねていいよと言うと、彼は雪融け水のようにわらって、それからぽろりと一粒の雫を溢した。わたしはたまらずキスをする。