ぼくは悪役になりたかった



 途中から連絡が途絶えた彼女の事を、気にかけながら夜を過ごしていなかったと言ったら嘘になる。最近アルコールを飲めるようになったらしい彼女は、今までの誘いを断り続けていた反動からか最近夜に出かけることが増えた。俺の気持ちを慮り、報告と連絡も欠かさないし、泥酔した状態で帰ってくることも無い。何より、今までノンアルで場の空気を壊してしまいそうで、と行けなかった場所に行くことが出来て楽しいと笑う姿が微笑ましかった。俺はアルコールにもともと強く、彼女の立場に立ったことは一度も無かった。節度を持つ、ということは毎日を生きていく中できっととても重要で、同じ屋根の下で暮らすなら更にそうだと俺は信じている。携帯を開いても待ち人からの通知は無く、終電の時間はとうに過ぎていた。深夜の三十分ほどで切り替わるバラエティやドラマを流しながら、ショットグラスにいれたウィスキーを傾ける。部屋に置いてある慣れ切った味を舌で転がして、もう何時間経っただろう。
 今タクシーです、ごめんなさい、という文章がスマートフォンのラインに送られてきたことに気付いたのと、ドアの鍵穴に鍵を差し込もうとしてしくじる音が聞こえたのはほぼ同時くらいだった。俺は覗き穴に目を当てて、ドアを軽くノックすると彼女はそっと後ろに下がった。鍵を内側から解錠してドアを押し開くと、今まで見たことも無いほど顔色を悪くして目の焦点が合っていないがいた。ぼんやりと玄関先で立ち尽くしているその腕を掴むと、低いヒールの歩き慣れた靴の筈のはよろめいて、けれど俺は抱き留められない。ただ靴が転がるように脱げて、部屋に入ったをそのまま定位置のソファに座らせる。テレビの音がやかましく響いている筈なのに、部屋は凍り付いたように静かで、それはただ俺の纏う無言の圧がこの部屋の温度を下げていることが原因なのだとは分かっていた。玄関の鍵を閉めて転がっていた靴を揃えるように直して、廊下に取り落としていた鞄を拾っての近くに置く。少し逡巡してからガラスではなくプラスティック製のコップを棚から取りだして、軽く濯いでからそこに半分ほど水を注いだ。ソファの上で頽れているの隣に腰かけて、俺はの手を取りコップを握らせる。弱々しい力で彼女はそのコップを受け取って、緩慢な動きでコップに口を付けるそのスピードの遅さが見ていられなかった。

「飲みすぎだ」
「……、はい」
「今まで別に言わなかったけどな、ちゃんと出来ねえなら行かねえ方がいいと思うぞ、俺は」
「すみません」
「これは俺の意見だけどよ、がしたいってんなら好きにすりゃいい」

 吐き出した言葉たちに剥き出しの棘があることには気が付いている、凍り付いた棘たち。いつもと違う、彼女の香水でも柔軟剤でもないアルコールの香りがまた俺を苛立たせた。やりたければやればいい、というのは、仮に続けるのならばその隣に俺がいる事は無いのかもしれないけれど、という意図を含んでいるものの心底の思いだ。どうしてこんなに自分が憤りを感じているのか、大人として自制できない所という大枠の中に、例えば俺には見せない油断しきった顔で何時間も俺の知らない人間と知らない話をしていたことだとか、慣れてもいない酒を飲んだのだとかを考えると、腸が煮えくり返りそうになる。
 俺は至って正当な怒りを感じている。同棲している彼女に対して、と半分ははっきりと言うことが出来て、もう半分の言葉が濁るのはこの感情が俺のエゴ極まりない事も知ってしまっているからだ。氷の溶けたショットグラスの中身を俺が一瞬で飲み干したところで、感情も感覚も変わらない。まるでマネキンのようにびしりと固まって両手でコップを持っていたは瞼を薄く開けて、急にぱちりと目を瞬かせるときょろきょろと周りを見渡した。家と店の区別もつかなくなったのか、と俺はあからさまに深いため息を零すと、彼女がおずおずと口を開いた。何を言うのか、あまり聞きたくなくて、けれども声に滲んでいる戸惑いは俺の想像と少し違っている。

「左馬刻さん、いつものお酒飲んでる?」
「それがなんだよ」
「今飲んだ?」
「飲んだけど」
「……びっくりした、今わたしそんなにお酒の匂いしてるのかと思った」

 俺は空になった自分のグラスを眺めて、のつるんとした丸い瞳に映る俺と、いつもなぞっている彼女の顔の輪郭を見直した。はゆっくりと水をまた一口飲んで、テーブルにコップを置くとソファに横たわる。目を閉じると、人工的に長い睫毛の先がふるふると揺れていた。 反射的にその頭を撫でそうな手をぐっと堪えて「何飲んだんだ」と尋ねると、「おんなじの」と想像した通りの答えが返ってくる。確か今日は会社の同僚と出かける、と言っていた筈だったけれど、わざわざこんなものを飲む必要があるのだろうか。というか、家にボトルがあるのだからそれを飲めばいいだろう。彼女は上司の名前を挙げ、その人が二軒目に普段は行ったことのないような少し小洒落た店へ移動したのだという。

「みんな、なんかお洒落なの飲んでてね」
「おう」
「全然わかんないから、いつも左馬刻さんが飲んでるやつを飲んだの」
「……アルコール度数って言葉分かってんのか」
「だから全然飲めなかった。……しかも左馬刻さん怒らせちゃうし最悪」

 睫毛の先に灯る光は濡れているようだった。俺はもう自分の中にある棘みたいなものが全部抜け落ちているのも、部屋の温度が徐々にいつも通りに戻っているのも分かっていた。まだ水飲むか、と尋ねると、うん、という声が返ってくる、澄んだ声に俺は返事が出来ず、コップを持ってまた水を注ぎにキッチンへ向かう。今度は七分目くらいまで注いだコップをテーブルに置くと、またゆるゆると、でも危なげ無く確実に彼女はその水を飲んでいる。速度は変わっていない筈なのに、先程までの焦燥感は消えていた。


「……はい」
「説教、聞くか?」
「……聞きます」

 しっかりと身体を起こした彼女はそう言って俺を見返す。強い瞳の淀みは薄れていた。俺は手を伸ばして、自分の欲求の思うがままに彼女の乱れた髪を整えるように頭をそうっと撫でる。

「最近飲み過ぎだから量は減らして強いのもまだやめとけ。俺が言える事じゃねえが身体には良くねえ」
「うん」
「それにあれ飲みたいってんなら、俺と飲めばいいだろうが」

 やわらかな髪の毛から離そうとする手がやけに名残惜しくて、するりと耳を撫でるように指を滑らせて、それから漸く遠ざける。くるりと丸くなった目が話の続きを求めているけれど、続く言葉も俺には特になく、人生の先輩としてアドバイスをするならば、もう少し水は飲んだ方がいい。ぽかんとしたままコップを両手で持ち水を飲んでいるの顔を俺は肘をついて眺める。「風呂入るならもう少し休んでからにしろ」、死んでも化粧は落としてから寝ると普段から豪語している彼女にそう呼びかけた。あと湯槽に浸かるのはやめてシャワーで済ませろよと付け足そうとして、俺はもう自分が怒っていたことすらも思い出せなくなっていることに気付く。恋人に対して投げかけるには些か過保護すぎる言葉を飲み込んで、結局、自称説教の言葉にも伝えたかった感情全てが乗っかっている訳ではない。俺はふ、と、その瞬間に思い出して、ハムスターかうさぎのような小動物めいた仕草で水を飲む彼女に、引っかかっていた言葉をふわりと投げる。

、おかえり」

 はグラスにつけていた口を、瞬きをしていた瞼を、揺れていた首の動きを全て止める。
 俺の顔をまじまじと、まるで物珍しい動物に会ったみたいに眺めてから、見慣れたやわらかな笑顔で「ただいま」と微笑んだ。