酸素に溺れる



 いやな夢を見た。
 うわあ寝汗、ひっどい。最悪だ、でもシャワー浴びるの面倒くさい。再びベッドに上半身を沈めれば、いつもは冷えているはずの右半分にまだ温もりが残っていることに気付く。時計に目をやればラジオ体操もまだまだ始まらないような時間で、驚いてベッドを飛び出した。お風呂場から音はしないし、トイレの電気も点いていない。家中を一通り歩き回ったところで、窓越しに丸まった背中をようやく発見した。

「……おタバコおいしゅうございますか」
「うわっ、テメ、来んなよわざわざ外で吸ってんのに」

 左馬刻さんは自らを覆う白い煙を払うように左手を振り回すのだけれども、他意はなくてもわたしに向かってあっちに行けと言っているようで少しいらっとした。副流煙?そんなの知らないと言わんばかりに構わず裸足のまま彼の隣に立てば、怪訝そうな顔のまま煙草の火を消す。こんな時間は人通りもほとんどなく、犬の散歩をしているおじいさんとランニングをしている若い女の人くらいしか見当たらなかった。高所恐怖症というわけではないけれども、真下を覗くとそれなりに足が竦む。そうすると、ぐっと首を後ろから掴まれ乱暴に柵から引き離された。痛い、と訴えかけるように睨み付ければ、さっきあんな遠慮もなく首を掴んだとは思えないような優しい手つきで頬を撫でられる。

「……寝てねぇのか」
「寝ましたよ、夢を見るぐらいに」
「夢見るんって、眠りが浅いからじゃねえの」

 くま、できてんのかも。目のすぐ下を親指でするりとなぞられて、少しくすぐったい。やだなあ、今わたしすっごい不細工に違いない。朝から泣きそうだ。今から学校行かないといけないのに、ここから出て行かないと、いけないのに。

「……?寝ぼけてんのか」
「…………」
「冷えっから、中入れや」

 今、何時だったっけ。さっき時計を見たばかりなのに。左馬刻さんはもうすぐ出て行ってしまうのだろうか。なんだ、変な夢見たからって。慰めでも期待しているのだろうか。左馬刻さんに背を押されて、くるぶしあたりに軽く拇指球をこすりつけてから中に入る。左馬刻さんが買ってくれた猫のスリッパを踏みつけたままぼんやりと突っ立っていると、灰皿を片付けていたはずの左馬刻さんがいつのまにか目の前に立っていた。

「――いいんだよ」
「え?」
「甘えてりゃいいんだよ、ガキがいっちょまえに気遣ってんじゃねえ」

 日はもう、とっくに昇っている。左馬刻さんはきっともうすぐ家を出なければならないし、わたしもそれなりに出かける準備にとりかからなければならない時間だ。甘えたくないわけじゃない、けど、もっとしっかりしていたい、変なことで心配かけたくない、かわいくない女だと思われたくない。全部がぐちゃぐちゃになる。自分がどうしたいのかすらわからなくなってしまうのだ。面倒だな、全てはこの人が好きだというたったひとつの感情でしかないというのに。

「……ごめんなさい、変な夢見ただけ。それでぼーっとしちゃって」
「変な夢だあ?」
「ちゃんと覚えてないけど、なんか、意味もなく不安になったというか」
「………」
「それだけ、です。だから大丈夫」

 それだけ、本当に、それだけ。なんにも嘘はついていない。どこか後ろめたさを感じるのは、この人にどこか遠慮してしまっているからだろうか。仕方ないじゃないか、わたしはいつだってわたしのことよりもこの人のことを優先してきた。ガキはガキなりに気を遣ってきたつもりだ。まだ学生の立場に甘えきっているわたしには、彼の仕事のことや、ヨコハマと他ディビジョンとの争いも、そこにある人間関係も、想像なんてつかないけれど。けれども、彼がわたしみたいにお気楽な生活を送っていないことだけは確かなことだ。

「……おお」
「……はい」
「テメェ、時間あんなら今日も来いよ」
「、は……?」
「帰り遅くなるかもしんねェけどよ、変な夢見たってここなら起きたとき俺がいんだろ」

 また目の下を親指でやさしく撫でられると、自然と瞼が落ちる。おでこに一瞬だけ唇を触れさせると、時計を見て漸く焦りを覚えたらしい左馬刻さんは慌ただしく着替えてそのまま家を出て行った。鍵を、持たずに。
 時間あるなら、って、左馬刻さんが言ったのに。今日の夜も、彼が帰るまでにこの家で待っていないといけないじゃないか。