Hearts



 等間隔に、まるでイルミネーションの飾りと同じように並んだカップルを、通り道の入口でぼんやりと眺めていた。歩道を挟むように植樹された両端の広葉樹はすべてきらびやかに桃色の光で飾られていて、よくよく目を凝らすと、ハートマークが隠れミッキーかの如く至るところに散りばめられている。
 スターバックスまでのその道中はやけにわたしには遠く感じて、一方でなにも感じていないらしい碧棺左馬刻のピンクの電飾に照らされたすべらかな横顔をじいっと見つめた。
 なにも感じていないのか、考えていないのか、他の人とだったらもっとやわらかな顔をするのか、それすらもわからない。ただ、わたしの隣を歩く左馬刻は、殆ど仏頂面に近い顔のまま革ジャンのポケットに両手を突っ込み、立ち止まったわたしを急かす様に一度こちらを振り返った。彼の端正な顔立ちの奥に煌めき、連なる桃色の人工的な光。

「ンだテメェ、ぼーっとしやがって」
「……あー、ごめん」
「寒ぃからコーヒー飲みてえっつったのテメェだろ」
「ごめんってば」

 ゆるやかな下り坂を歩いていくと、左馬刻の横顔越しにでも見える自撮りするカップルたちが次々と視界に入る。イルミネーションで作られたハートマークを指さして、寄り添うように肩をくっつけて、なにやら囁き合う、そういう風景は本当に居心地が悪くて座りどころもない。長い脚で一歩先を歩く左馬刻に置いていかれないようにとわたしも足を速め、見慣れた看板に向かって進んでいく。
 外の寒さのせいか店内は殆どの席が埋まっており、左馬刻は自分の薄っぺらいバッグをわたしに放ったあと、邪魔、と言わんばかりにわたしを店から追い払った。「外で待っとけ」と口が動いたのを理解したわたしは、等間隔で並ぶカップルたちが座る、少し背の低い途切れ目のないベンチの端に腰かける。なにが入っているのかはわからないけれど、薄っぺらい見た目のわりには少しばかり重い鞄を落とさないようにと膝の上に乗せたまま、自分のバッグに入れていた財布から五百円玉を取り出して握りしめた。いらねぇ、と言われるような気がしたけれど、というか十中八九言うだろうけれど、と冷たい手の中で同じようにひやりと冷たくなっていく五百円玉を握りしめたまま、ただぼんやりと彼を待つだけの時間はやけに緩慢だ。
 目の前で、まるで装飾品みたいに幸せを振りまいている、すべてが同じように見える、けれども決して同じではないたくさんの男女をぼやける視界の中で眺めていると、足音よりも先に彼の「おらよ」という声と白い湯気の立ち昇るブラックコーヒーが目の前に差し出された。

「……ありがと」
「ウザってぇくらいに混んでんな、どこも」
「そうだね、あ、これ」
「いるか。しかもンな高くねぇ」
「手間賃だよ」

 わたしの膝の上に置かれたバッグを自分の側に引き寄せた瞬間に、予想通り拒絶されたかわいそうな、先程よりもすこしだけぬるくなっている五百円玉を彼の革ジャンのポケットに押し込んだ。思っていたよりもたっぷりと入ったコーヒーの苦く芳ばしい匂いが、白い湯気と一緒にふわりと顔全体を覆う。
 左馬刻が、断る言葉よりもはっきりと、わたしの手首をぐっと掴んだ。その手が存外あたたかいことにすこしだけ驚いて、思わず身体の動きが止まる。ポケットの中は彼の雄勁な指先よりもずっとずっとあたたかくて、そこに五百円玉を滑り込ませた後で手をするりと引き抜くと、自分の手がいやになるほど乾燥していることに気がついた。
 爪に塗られた透明のマニキュアは光に当てられ艶めくけれど、じっと目を凝らすとわかるようなささくれや手の甲の乾燥のせいで、冷たく刺す空気に皮膚はぴりぴりと痛んだ。わたしと反対側の座面に置かれた、あたたかいことだけは確かな彼の飲み物に視線をやる。そのまま視線をわずかに上に向けると、イルミネーションのきらびやかなピンクの光がまるで宇宙のように散らばった左馬刻の紅い瞳がこちらをじっと見ていた。星空の青とはひどく遠ざかっているはずの赤は、それでもどこかベテルギウスやアンタレスを彷彿とさせるようで、こういうの宇宙論的赤方偏移って言うんだっけ、ああそういえば左馬刻の星座は蠍座だったなあ、なんて。固く冷たいベンチの上で、黙ったままのわたしと左馬刻の間にあるすべての夜はひとつの動きも見せることはない。目の前を歩いていく沢山の人々だけが、海の中で揺れる海藻のようにゆらゆらと揺らめくのが視界の端に見えるだけだ。

「こういうの、見に行くの」
「あ?何が」
「イルミネーション」
「無ぇな。彼女とか、ってことだろ」
「うん」
「無ぇな」

 二回も言わないでいいよ、と言った後で、やっと彼から目を逸らしてコーヒーのカップに被さっている蓋をぱかりと外し開ける。気休め程度に息を吹きかけてみたもののそれは文字通りに気休めで、口をつければまだ熱すぎる、そして苦いコーヒーが自分の喉を、身体を一直線に通り抜けていくのがわかった。胸が熱い。まるで頬に張り手でも受けたかのように目が覚めて、ぼやけた頭がしゃっきりしていく。一瞬だけ、まるで海の底に溺れるみたいに彼の瞳の中に沈んでいた自分が、今は真冬の外のベンチに座っているのをはっきり思い出すことができた。
 夢を見ている瞬間、いつもいつも、自制していたり、知らないような顔をしていた物事をすっかり忘れてしまう。極めつけには言葉まで失ったり、拗らせるような無意味な自分だけの為の台詞ばかりが浮かんだりもする。けれども、それらはすべてわたしの驕りであるに過ぎず、てのひらが痛くなるほどに熱いコーヒーのカップを握りしめて、隣で白い息を吐き出す左馬刻の横顔を見て静かに喉元をきゅっと締めた。まばたきの合間にも紡がれていく美しい彼の美しい仕草すべてを、言葉なんていらないから、ただこの目と記憶に焼き付けたいと願ってしまう。自己満足の言葉の代わりに、彼といる記憶ばかりは一生分でも取っておいて、宝箱のなかに大事に仕舞っておきたい。ふう、と白い息を吐きだした左馬刻が、ピンク色の光を見つめながら「でもよ」となにかの言葉の続きを真っ直ぐに呟いた。
 わたしの顔を見ようともしないまま、ただ真っ直ぐに顔を上げる。きれいな横顔を包むピンクの光と、透けるように輝く銀髪、真っ黒の影、浮き上がる左馬刻の輪郭。

「ま、お前となら、悪くねェな」
「……はい」
「反応薄すぎんだろ」
「だって、意味わかんないし」
「ああ?大体分かっだろうが」

 殆ど減っていないコーヒーの黒い水面が、こちらを向く彼から逃げるように身体を逸らすことでたぷりと揺れた。わたしではなく、わたしが左馬刻を見た時と同じ、なんだか周りにある光の輪郭みたいなものを見たような顔の左馬刻がわたしを見る。空っぽの手の片方が、わたしの膝の上に置かれた手の上に重なって、「つめてぇな」と左馬刻はすごくきちんと笑った。いたずらを覚えたばかりの子供みたいな純粋な笑い方があまりにも強く、けれど脆くて、どうしようもなく目を逸らしてしまいたくなる。重なった二人の熱い手と冷たい手の温度が混ざり合うよりもずっと早いタイミングで、左馬刻がわたしの手を握った。視線や言葉と相反する、弱々しい力で。
 顔を上げて、混じり合った視線から逃げるようにぐっと彼はこちらに顔を近づけ、頬を包むように散らばった髪の表面にそっと唇をくっつけた。ふわりと鼻腔を擽るコーヒーの匂いがして、左馬刻も同じものを飲んでいたのか、と、離れていく顔とこちらを見ない彼の瞳を追いながら考える。
 重ねられた手の温度がやっと混じり合った頃、掴まれていた手をくるりとひっくり返したわたしが彼の指先に自分の指先を絡めると、驚くでも嫌がるでも怒るでもなく、またなにを考えているのかわからない顔の左馬刻は、それでもわたしの手を握り返してくれた。それはどうしようもなく奇跡のように。強く、強く、強く。