HUNGRY



「んとに馬鹿だな、ちゃんよォ」

 そう言って頬にかかる銀色の髪を流すように耳にかけてから、わたしの顎をくっと持ち上げる。まるで血液みたいに紅く輝きを放つ瞳の奥に、じりじりと燃える疼きのようなものを感じて、あ、キスされる、と本能的に感じたとき既に左馬刻さんは顔を傾けていて、思わず目を瞑った瞬間にはもう舌が交わっていた。あんまりにも流れるような口づけだったから、どうしたらいいのかわからなくなってそろそろと瞼を上げる。まつげ、ながいな。瞬きをするたびにばさばさと音の鳴りそうな密度の高い左馬刻さんのそれにそんな陳腐な感想を抱くも、早々に蕩け始めた思考回路を置いていくようにどこまでも彼のペースで事は進んでいくから、上を向かされていることも併せて首はすこし痛いし、息苦しくなった喉の奥からは子犬の鳴き声のような細いくぐもった声が漏れた。ぎゅっと握っていた自分の手はじんわりと汗ばんでいたけれど、彼から触れられるまでそれに気づく余裕すら無かったことを思い知る。ちぅ、とわざと濡れたリップ音を立てて離れた唇は、それでも乱れた呼吸を整える隙なんて与えないように磁石みたいにまたすぐにくっついた。左馬刻さんの胸元に手を置いてわたしはわたしなりのちいさな抵抗を見せたけれど、きっと彼にはなんにも伝わっていない。彼が、わたしのことをちゃん付けで呼ぶのはたいてい、機嫌がよくないときか、甘えたい気分なとき。普段は圧倒的に前者が多いのだけれども、今はたぶん、どっちも。

「唇やわらけえな。きもちいいだろ」

 わたしの唇をふにふにと触りながらそんなことを言うから恥ずかしくなって、熱くなる顔をふいと逸した。そんな些細な抗いすら伝わってしまえばそれがどうやら気に喰わなかったようで、正面を向くようにと先程よりもやや強いちからで顎を持ち上げられる。どこかの筋を痛めたのかぴきりと変な音が聞こえた。どこに触れてはいけない琴線があるかわからない左馬刻さんの表情はもはや不機嫌を隠すこともなく全面に押し出すようなかたちになっていて、顔が良いのはわかるけれども正直怖い。美人が凄むと迫力がある、というのは本当だったんだなあ。何度目かもわからなくなってきた深いキスは、彼がひとりで飲んでいたそれなりに高い度数のアルコールさえも融解されていく気がする。今となってはお酒の味は殆どしなくて、それよりも左馬刻さん自身が纏う煙草や香水のにおいの方がよっぽど強かった。

「なあ。あいつとしたキス、気持ちよかったか?」

 唇を人差し指で押さえるようになぞりながら訊いてくる。質問の意図を咀嚼して飲み込んで、そうして理解した瞬間に慌てて否定しようとしたところで、彼のもう片方の手がするりと服の中へと入ってきた。何度も繰り返したキスでわたしはこんなにもからだが熱くなってしまっているというのに、相反するようにひんやりとした手の冷たさに肩が跳ねようが色気のない声が漏れようが彼はお構いなしだ。下着ごと胸を掴むように揉まれたら、ばくばくと脈打つ心臓のはやさが尋常じゃないことに気がついた。

「なあ、どうなんだよ」

 自分で訊いておきながら、答えることを阻むようにキスをしてくるから当然、弁明の言葉すら出せやしない。こういうとき、どう答えるのが正解なんだろう。
 そもそも、当初の台本にはなかった。それでも監督の一声とその場の雰囲気で急遽決まった追加のシーンに「嫌です」なんて、主演とはいえそこまでキャリアが長いわけでもないいち俳優であるわたしが言えるはずもない。役者の世界は性別に関わりなく実力主義で、それは女尊男卑が主体となったH歴現代でも変わりない。そのドラマをたまたま見ていたという彼は相当にご立腹だったようだけれども、正直仕方がないと思っている。だって、仕事、だし。

「仕事だから仕方ない、とか思ってんだろ」

 ……このひとこういうとき本当に鋭いんだよなあ。そうぼんやり思いつつも、反射的に首を横に振った。

「あんな甲斐性無さそうな男に惚れんなよ?」

 こつん、とわたしの額に自分のそれを当てて、どこか甘えるような色を含んだ声でそう言ってくる。本人の預かり知らぬところでだいぶひどいことを言われているけれども、ただの共演相手に惚れるだなんてそんなこと、あるはずないのに。わたしの心の容量は既にたったひとりでいっぱいいっぱいになっていることを、左馬刻さんは間違いなく知っているはずなのに。知っていて、わかっていて言っている。意地悪で、周到で、狡い。だから、わざと返事はしなかった。

「俺のことだけ見てろ」

 口角を上げながら唇を舌で舐めて、凶悪を滲ませた獲物を狙う猛獣のようにどこか意地悪に笑った左馬刻さんはわたしをベッドに押し付けるように引き倒す。もう意味をなさなくなった下着も、明日も仕事なのに、と一瞬脳裏をよぎった考えも、なにもかも脱ぎ捨ててしまって、どろどろになるまで、ふたりで溺れてしまいたい。

「……左馬刻さん。やっぱり、わたし」

 左馬刻さんがなにを思ったのかはわからない。それでも、わたしの言いたかったことはやっぱりその唇に噛みつかれて食べられて飲み込まれて、ベッドの隅に落ちた下着みたいに、きっと夢から覚めるまで思い出すことはない。
 こうやって執着しているふうに振る舞いながらもわたしを"特別"なんかには決してしてくれやしない左馬刻さんも、そんな彼を切り捨てることのできないわたしも、全然好きじゃないのに。
 ほんとうにばかなのは、きっとわたしだけじゃなくてお互い様。あんなチープなキスシーンなんかにさえもヤキモチを期待していた矮小なわたしを、どうか誰かが嘲笑してくれますように。