大学の授業からのバイトを終えて家に帰れば、玄関には見覚えのあるスニーカーがちょこんと揃えて置いてあった。もしかして、なんて期待や予感が混ざった感情と共に階段をのろのろと登る。部屋のドアを開けてみれば、そこには、予想通り人のベッドにもたれ掛かってスマホの画面を見つめている年下の幼馴染みがいた。
「なんでいるの」
「来ちゃだめなの？」
「だめじゃないけど、一郎くんとか二郎ちゃんに言ってきた？」
「一兄はともかくなんで低能の二郎にまで言ってこないといけないわけ」
帰ったらすぐ着替えようって思っていたのに、三郎がいる手前それもできず。お気に入りのスカート、皺になっちゃったら嫌だなあ、なんて座るのを躊躇っていれば、なんで座んないの？と言わんばかりの顔でこっちを見てくるから、しぶしぶそばにあった柔らかいクッションに腰を下ろした。お尻の下敷きになっても皺にならないように、念入りにスカートのプリーツを伸ばして。
「なんだかんだ一時間は待ってたんだけど」
「そもそも、今日来るって言ってなかったじゃない」
「だって急に休みになったんだもん」
「うーん、そっか」
なにをするでもなく、三郎はこうやってごくたまにわたしの部屋に訪れる。ただ、特に実のないとりとめのない話をして、そうして零時近くになると「おやすみ」と兄弟の待つ家へと帰っていくのだ。まだ中学生なのに、夜中に外を出歩いて補導なんてされてしまってはいないだろうか。結局のところ、どんなタイミングで、どうしてわたしの部屋に来るのかなんて理由はわからない。なにかと忙しく背負っているものの多い幼馴染みの気分転換になってるのかもしれない、と今まで特に気にすることもなかったのだけれども。
三郎は小さくため息を吐いて、弄っていたスマホをベッドにぽんと投げた。「ていうかさあ」眉間にきゅうっと皺を寄せて、どこか不満そうに口を開く。なんだか、今日の三郎は小言が多い。
「帰るの遅くない、今何時だと思ってるの」
「今日はバイトでした」
「最近いっつも遅いんでしょ？」
「うーん、だいたいこのくらいの時間」
「遅いじゃん」
相変わらず不満そうな顔で、こっちを見つめている。なにも言わないわたしを一瞥して、ベッドのそばに置いてあった白い猫のぬいぐるみに手を伸ばした。わたしの部屋には三郎によって勝手にへんてこりんな名前を付けられたぬいぐるみがいくつもある。前につけられたのは確か、クイン・アナ・ ブレイクスルー・ラブ・シューティングスター・ロード、略してクロ、だっけ。たぶんあの白猫も標的になるんだろうな。
しかしまあ、またそのジャージにＴシャツなの。着回しすぎてくたびれた黄色いＴシャツの襟元は若干ゆるんでいるし、ジャージも着古されている。普段外で見るときのようなパーカーにジャケットを羽織ったスタイルではなく、どことなく生活感溢れる服に身を包んだ綺麗な顔の幼馴染みは、なんていうか、どこか耽美的だ。……ちょっと言い過ぎたかもしれない。男の子に耽美って言葉はおかしいかな。うーん、魅力的、というか、なんというか。今なら、海外の顔が良いショタのアンバランスさに惹かれるっていう人間の気持ちがわかる気がする。なんて、今日受けた心理学の講義に影響されちゃったのかな。
「なに考えてんの」
「うーん、べつに」
「絶対変なこと考えてた」
変なことってなに。そう口にしたところで、余計面倒なことになりそうだから黙っておく。三郎は白猫のぬいぐるみの首根っこを掴んだまま、わたしをじいっとまっすぐに見つめている。その青と緑のきれいな瞳の奥に、どこか不安の色が潜んでいるのを感じたのは、わたしの気のせいなのか、それとも。
三郎は大きなため息を吐いて、ごろんと勢いよくベッドに寝転んだ。普段はそんなことしないのに。どうしたんだろう、とそばへ歩み寄る。
「大学生ってさあ」
「え？」
「みんなそんな感じなの」
天井を見ながら、三郎がふいにぼろりとこぼした。その言葉を咀嚼して飲み込んで、問いかけの意味に気付いたとき、わたしの口許と心はゆるゆると解かれてゆく。
「三郎、わたしだけ先に進んじゃうからさみしいんでしょ」
からかうようにそう言ったのに。どこか鋭い瞳に捕えられて、わたしはなにも言えなくなってしまった。どうして、そんな顔するの。部屋には時計の針の規則的な音だけが響いていて、急に息苦しい気分になってしまう。ベットに寝転んでいる三郎と、そばに突っ立っているわたし。どうしたものか、と思案しているわたしの腕が、急にぐいと引かれた、と思ったら。次の瞬間にはわたしもベッドにダイブしていた。引っ張られた反動でわたしの腕が三郎の肋骨にぶつかる。う、と小さく堪える声が聞こえた。ええ、もう、今の絶対痛かったもん。
「ごめん、痛かったよね？」
「なんで謝るの」
「だってぶつかったから」
「僕が引っ張ったからじゃん」
三郎の、どこか困ったような声がすぐそばで響く。なぜだか、小さい頃、泣いていたときの三郎を思い出した。そうっと視線を上げて盗み見たその表情は、到底泣き出しそうにはなかったけれど。
「はいつも先にいるよ」
「……そんなことないよ」
なんと言ったらいいのかわからなくて咄嗟にそう返したけれど、わたしの言葉が余計に突き放してしまっていたらどうしよう、と不安になってしまう。先を行くわたしには、三郎の気持ちはわからない。今までも、きっと、これからも。
投げ出されていた手が、急に体温に触れた、と思ったら、三郎がぎこちなくわたしの指先を握っていた。こうやって、隣に並んで寝転んでいるときがいちばんわたしたちらしいよ。そんな思いを込めて、その手をきゅっとやわく握り返す。
ちらりと横目で見た三郎の耳は、めずらしく真っ赤に染まっている。思わず口元がゆるむのがわかった。じわりじわり、胸の奥底から浮かんでくるこの感情を、愛しさ、と呼ばずしてなんと呼ぶだろうか。
今日、会いにきてくれたの、ほんとは嬉しかったんだよ。そんな言葉が、わたしのくちびるからこぼれるまで、あと、少し。