sprint-1
一つ上の、つまるところ三年生のさんに俺はめちゃくちゃ憧れていた。兄ちゃんっぽい言い方をしてしまえばいわゆる"推し"だ。女の子みたいにきれいな顔、黒曜石みたいなきらきらの瞳、絹糸みたいにさらさらの金髪。そのふっくらした桜色の唇なんて何度キスしてしまいたいと思ったことでしょうか。ちょっとしか話したことはないけれど、その瞳に自分が映ることにはいつもいつも「信じられない！」という気持ちでいっぱいなのです。そうです。今こうしてさんの瞳をじっと見ていると、俺の情けない顔が見えるのです。信じられない！
「うん、わかった。ありがとうな」
「い……イイエ……」
さんはバスケ部で（幽霊部員みたいな噂も聞いたことがあるけれど、まあ今はそんなのどうでも良くて）、俺と同じクラスの部員を探して歩いていたらしい。久しぶりに珍しく会話ができたことにも、もうなんか飛んでいってしまいそうなんだけど、さんが俺のクラスを知っていたことにまず感動している。今日すごい。このあと絶対なんか起こる。どうしよ。もうそれでもいいや！去っていくさんの背中を見届けると掌は手汗でべしょべしょだった。スラックスで拭いて、止まっていた息をゆっくりと吐き出しながらとりあえず教室に戻ろうと思った。ちょっと酸欠でふらふらしている。俺気持ち悪っ。
教室のすぐ隣へ繋がる階段をあと四段で上りきろうというとき、視界の端っこにクラスメイトの影を見た。えっ、待って、バスケ部のやつじゃん。階段を一段飛ばしで駆け上がると「ちょっと待ったー！」と必要ないくらいの大声で呼び止めてしまった。必死か。周りの生徒が何事かと俺を振り返る。恥ずっ。
「山田、なに？」
「なんかさっき、……先輩が、探してたぜ」
「え、おれ？」
「なんかうちのクラスのバスケ部誰でもいいみたいだったけど」
「そっかーありがと、電話してみるわ」
パチッと今時じゃ珍しいガラパゴスの携帯電話を開くその手元に標示される11桁の数字を、きっと今の俺ならばすぐに覚えてしまえるだろうけども、さすがにそれはちょっと、ちょっとな、うん、やめとこうな。覗こうとしてしまった視線を無理やり前に戻せば、そこに捉えた姿だけで、心臓が、跳ね上がる。
「さ、」
は、と口を手で押さえるのと同時、ダチは「え？」と顔を上げる。彼は「あ」と声を上げる。ぱちりとぶつかってしまった視線は逸らすことができずに、でもその瞳は遠くて、きっと情けなく驚いて焦っているであろう自分の顔は当然ながら俺には見えない。やけにゆっくりと流れていたような気がする時間は、「今電話しようとしてたんですよー」というダチの声できりきりとねじが巻かれて元に戻る。さんがもう目の前にいる。隣にいる！ここにいる！「あー、じゃ、これで……」逃げ腰になってしまっている俺はめちゃくちゃかっこ悪い。
「あ、じゃあな」
「ありがとうな、山田くん」
「、は、い。また明日」
山田くんて！！！！！！！！！口からどころか胸突き破って心臓出る！！！うわだめだ、ほんとにだめだ、俺おかしいのわかってる、わかってるけど、もうどうしようもないのです。
sprint-2
俺はかつて「おはよう」という言葉にこれほどまで感動したことがあっただろうか。いや、ない。反語だ。
昨日は推しであるさんと話すことができておまけに「山田くん」なんて呼ばれて絶対なんか起こるとか思ってたけど、案の定というかなんというか、ぼうっとして帰っていたら駐輪場に停めてあった自転車に気が付かずぶつかった。ドミノのように雪崩れて倒れた自転車たちを起こして、家に帰ってからは疲れ切ってふらふらするし、壁伝いに歩いていたら本棚から辞書がはみ出ていてその角に額をぶつけた。血が滲んだ額もそのままにぼやっとしていたら三郎がなんかものすごく形容しがたい顔でこっちを見ていた。何この漫画みたいな展開、と考えながら、そういえば今日自体が漫画みたいな日だったなあと思ったりしていたのだった。額には瘡蓋ができて、そんなことはすっかり忘れて今朝顔を洗っていたら引っ掻いてしまった。ちょっとだったけど血が流れて、不格好を承知で絆創膏を貼って塞いだ。
「怪我したん？大丈夫？」
いやもう、汗が滲んで剥がれそうなんだけど。朝に昇降口で会って、おはようと声をかけてくれたあのさんが、俺のバカが生んだ怪我の心配までしてくれている。はは……と情けなく乾いた笑いを歯の隙間から零して額に触れたら、「あ、」絆創膏は滲む汗にペロリと半分剥がれた。もういいか、とそのまま残りもゆっくりと剥がした。
「あ、おればんそうこう持ってる」
「……え、いやもう血止まってると思うし……」
「見して」
「えっ」
傷を隠す俺の手を、さんの綺麗な手が簡単に取り去ってしまう。う、わ、ちか、えっ、近い！！！！！さんは「まだちゃんとかさぶたできてねーべや、いつ怪我したんこれ」と言うのだけれど、ちょっと、声の聞こえる距離が近くて、もう怪我したのなんか何億光年も昔だったと思うけどどうだったっけ「ひっかいた？顔洗ってて？あほじゃん」うわああああ笑顔に覗く犬歯にごくりと咽喉が鳴る。
「新しいの貼ってやっから」
「い、いや貼れますし」
「いーから、見えねーべ自分じゃ」
鞄から取り出した絆創膏をぺりぺりと剥ぐその綺麗な指と伏せた目を飾る睫毛とを交互に見て、俺は実はまだ寝ているんじゃないかと思う。なに？これ、昨日から、なに？俺死ぬの？そう思いながらもその隙に額を手の甲でごしごしと拭いた。さんの手が伸びてきて、触れた指先はちょっと冷たい。どうしたらいいのかわからなくて目をぎゅうっと瞑って、本当はその細い腰にこのまま腕を回してしまえたら！なんて邪にもそう思う。手は例によって汗でべしょべしょ。ああ普段どんなことがあったって、それこそディビジョンバトルのときだってこんなに緊張することなんてないのに。こんなに心臓がばくばくすることってない。こういうときに限って平常心って保てないんだな、学習した気がする。
「ほい、気ぃつけてな」
「あ、りがとう、ございます、気をつけます」
「ん」
満足そうに微笑んで、予備、と言うと俺のべしょべしょの手に絆創膏をもう一枚握らせた。エッなにこの絆創膏って概念礼装？紅洲宴歳館・泰山特製の激辛麻婆豆腐かなんか？俺課金もなにもしてないけど大丈夫？さんが面倒見が良いっていう噂は本当の本当で、一方の俺はこの額の絆創膏が剥がれないようにするにはどうすればいいかということばかり考えていた。
sprint-3
「山田って先輩と中学一緒かなんか？」
「……ん？」
「いや、ん、じゃなくて」
野崎（例のバスケ部）に「まばたきしすぎじゃね」と笑われながら、昼食の、まだ咀嚼しきっていないお弁当のからあげが咽喉に詰まりそうになった。いやちょっと詰まった。だって、なんて？？せんぱいと？ちゅうがく？ISSHO？？？麦茶でからあげを食道へ流し込んで、なんで？と訊く。
「こないだも知り合いっぽかったし。先輩だって山田くんって呼んでたろ」
「ええ〜〜うーんそうなんだけど……そうなんだけど〜……顔見知りくらい……」
正直これといって接点もないし「先輩、人の顔とか名前あんまり憶えないから意外」ええええええええええええ
そのあとの野崎の「あーやべ便覧忘れた」という声も正直耳に入ってこなかった。
午後の授業は副交感神経が優位になり消化管活動が活発になってしまってどうにも眠いはずなのに（俺今めっちゃ難しいこと考えてる！今なら三郎より頭良くなれるかも！）、今日は眠くならない。特に古典なんていつも眠くなって舟漕いでるのに。絆創膏を貼ってくれたさんの顔が、笑顔が、もうすぐそこにちらついているから。いとをかし……。そんなことを考えているうちに授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。うわ、ノート真っ白だけどまあいいか、あとで見せてもらおう。次は数学だったし教科書まとめてロッカーに入れちゃおう、と席を立ったとき、ケータイを片手にした野崎に「山田便覧持ってた？」と声をかけられた。
「え、うん、持ってるけど」
「じゃあ貸してくんね？先輩が次古典らしいんだけど持ってないって言うから」
「あーうん、いいぞ、ハイ」
「ありがとー」
野崎に便覧を渡して、他のものを片付ける。あ、数学予習してない。今日は絶対当たんのに！慌てて席へ戻った。
▽
「山田くんー」
エッッッ？？？？？数学も終わってさあ後は掃除して帰宅という、今、その、教室のドアのところで、俺を、呼んでいるのは、紛れもなく。
「えっなん、えっ」
さんだった。笑顔で手招きしている。俺はふらふら磁力に引き寄せられるみたいに近づく。なんだろうこれは……なにか……奇跡が起こっている……？さんが俺のクラスの教室に来て俺を手招きして呼んでいるなんて何事……？うん……？さんは「これありがとうな、たすかったー」と笑って、俺に便覧を差し出した。あ、これ、さんのことだったんだ。えっどうしよう変な落書きとかしてなかったよな！？大丈夫だよな！？動揺しながらもそれを表に出さないように、どういたしまして、と言い切ったところで、教室の後ろのほうから声がした。「ジロー、今日掃除教室な」「あーそっか、わかったー」
「じろー」
「えっ」
「ふーん、いいな、俺もジローって呼ぼ」
「えっ？？？？」
「あ、そうだこれあげる。あめちゃん」
「あ、あめちゃん」
「うん。これ貸してくれたお礼な」
いちごみるくて！！！！！！！「あ……ありがとうございます……」さんはじゃあまた、と言うと三年生の教室のほうへ帰っていく。う、うわー、うわー、なに？なんだろうこれは。手震える……あめちゃんとか……尊いわ……こんなん食えねえ……ジップロックしなきゃ……。なんだか手の中の便覧がものすごく崇高なものに見えて思わず額の高さで拝みたい勢いだった。そこで便覧から紙きれの端っこが見えていることに気が付く。プリントなんか挟んだっけ、と思いながらそのページを開くと、なんだか覚えのないプリントで、あ、と思うと同時に教室から飛び出ると声が出ていた。
「さん！」
振り返ったさんは「ん？」と首を傾げて返事をするけれど、俺は、もう、ああ、やってしまった、という思いでいっぱいだった。さん、て。勝手に近づいているつもりで頭の中じゃいつもいつもそう呼んでいた。相手は先輩で、しかも同じ部活でもなんでもないのに。
「なにー？」
「え、あ、あのっ」
耳に手を当ててこちらに向けるさんがかわいい、とかそういうことを考えている場合ではなくて、俺は大股で彼に駆け寄る。
「これ挟まってたんですけど、、せんぱい、のですか」
「ん？あーほんとだ、忘れてたーありがとう」
「いえ、じゃ、俺はこれで」
俺はくんの前じゃいっつも逃げ腰だ、と思うけれど、どうにもできないから仕方がない。消えたい。もう調子乗んないように気をつけなきゃほんとにだめだ……。「ジロー」「はっ、はい！？」背筋が伸びた。
「別にさんでいいよ、あとまた教科書忘れたら借りにくるからよろしくー」
ひらひらと手を振って帰っていく。ちょっと、なあ、どうしてくれんの、動悸息切れなどの諸症状に効く有効成分早くください。
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