wannabe



 静かに、けれど思い切って足首を越えてふくらはぎまでを水に浸けた。どうして悪いことをするときって、こんなにもどきどきするんだろう。この時間になっても水温はぬるくて、でもそれが逆に心地よい。昼間には考えられないプールサイドの静けさに、ひとり落ち着いて腰かけた。プールの向こうには校舎、それから急いで下校する生徒たちが疎らに見える。けれどまだ陽は長くて沈んでいないし、じんわりと汗が滲むような暑さを孕んでいた。別に遠いわけじゃないけれど、近くもない。
 もしかしたら、先生ってめちゃくちゃ視力がいいんだろうか。たまたま校舎の方からわたしに気付いたようで、慌ててやって来た盧笙先生の額にも少し汗が滲んでるように見えた。

「え、?こんなとこで何しとんねん、はよ帰り」
「……嫌です」
「はあ?」
「って言ったらどうします?」

 こんな生意気な言葉、頭ごなしに叱られるって、そう思った。アホなこと言ってないで早く帰れって、盧笙先生もどうせすぐに去って行ってしまうんだろうなって。

「……鍵は?」
「フェンス乗り越えて帰るので、心配無用です」

 わたしがきっぱりと言ったら、先生は噴き出して笑い始めた。

「わたし、なにか面白いこと言いました?」
「いや、がそういうこと言うん珍しいなって」

 そういうこと言うの、珍しいっていうか、似合わないキャラなんだろうなって、自分でもそう思う。気持ちいいんですよ、そう言ってバタ足するみたいに両足を動かして水しぶきを上げたら、ブラウスやスカートに水がかかっていびつな水玉模様を作る。盧笙先生は少し呆れた様子でわたしの隣にやって来て腰を下ろした。

「まだしばらく帰らへんつもりか?」
「先生、そこ座ったらお尻濡れますよ?」
「そんなんええから。どうした?」
「え?」

 先生は履いていた職員用スリッパと靴下を脱いで、ダークグレーのスラックスを捲り上げた。落ちないように膝の高さまでしっかり捲ってから、ちゃぷんとわたしの隣で水面に足を浸ける。

「何か悩んどるんとちゃうんか?」

 うわ、プール入ったん何年振りやろ、なんてやけにテンションが上がっている盧笙先生にちょっとだけ口元がゆるんでしまった。厳密に言えばプールには足しか入っていないのだけれども、そんなことはどうでもいい。

「なんにも、悩んでないです」
「ほんまに?」
「……ちょっと夏の思い出が欲しくって」
「夏の思い出て、これか?」
「あんまり変なことして内申点下げるのもアホらしいじゃないですか」
「そこはしっかり受験生やな」
「もう少ししたら帰るので、わたしのことなら大丈夫ですよ」

 心配させないようにそう言ったけれど、先生が立ち上がる気配はなかった。バランスを取るように後ろに手をついて、前を向いたままゆっくりと息を吐く。

「……なんか、あれやわ。ちょっと安心した」

 わたしが首を傾げると盧笙先生が目を合わせようにこちらを向く。

ってそういうイメージなかったから。ちゃんと息抜きの仕方知っとるんやな」
「頭カチカチだと思ってました?」
「……まあ、正直」

 そういうイメージを持たれていることを知っていて、それが嫌で逃げ出したかった、とは言えなかった。わたしは自分が”優等生”で居られる間はそうあるのが最良だと思って、自分で敢えてそれを選んだ。けれど、ちゃんと息抜きの仕方を知っている。どんなに不器用なやり方でも、わたしにはわたしなりのやり方がある。

「そんなことも、ないですよ」

 突然立ち上がると、先生が眼鏡の奥で僅かに驚いた顔をする。スカートのホックに手をかけた瞬間、先生が僅かに頬を染めて慌ててなにかを言っていたけれど、もう全く聞こえなかった。スカートの下に穿いていたハーフパンツに上はブラウスのままで、ザブン、と足先からプールに飛び込んだ。

「え!ちょお、!」
「心配してくれてありがとうございます、先生」

 せいいっぱいの告白だった。盧笙先生がわたしなんかを気にかけて、ちょっとでも知ってくれていることが嬉しかった。先生は、今も驚きを隠せないといった顔でわたしを見ている。

「でも優等生じゃないんです、わたし」

 そう言ってから、足に違和感。あ、やばい。先生にぎりぎり届くか届かないかくらいの声が漏れたときには身体が思い通りに動かなくなって、がくん、と力が抜けてぶくぶくと沈んでいった。頭まで沈んで、水面を覗き込みながら盧笙先生がなにか言っていたみたいだけど、水の中だとどうすることも出来ない。ぼやけた視界は夕暮れの光に満たされて、このまま死ぬのかなあ、そんなことをぼんやりとそう思った。息を吐いたら気泡になって舞い上がって、消える。ゆっくり、目を閉じた。

!」

 意識が途切れていたわけじゃない。だけど次に目を開けたらわたしの身体はプールサイドに戻っていて、盧笙先生がものすごい形相でわたしの肩を揺らしていた。今までにないくらい近い距離で、先生も頭から爪先までびしょ濡れで、ようやく、助けられたのだと理解する。ああそうか、足、攣ったんだっけ。先生?と小さく呟いたら、途端安堵したように息を漏らした。

「大丈夫か?まったく、アホ、何やっとんねん」
「……盧笙先生、わたしね」

 あなたのことが好きです、そう言ったら先生はどんな困った顔をするだろう。困って、わたしのことなんか嫌いになってしまうだろうか。急に倒れ込むように抱きついたら、ケガの功名で抱きしめ返してくれるだろうか。もしも、先生が助けに来てくれると信じてたなんて言ったら、足を攣ったなんて嘘だとバレたら、どれだけ怒らせてしまうんだろうか。
 明日からは、また、ちゃんと優等生に戻るから。自分にそう言い聞かせて、先生のからだにはりついた浅紫色のワイシャツの袖をぐっと引っ張って、唇を押しつける。ファーストキスは乾いた唇と塩素の味がいつまでも鮮明に残って、なんだか少し泣きたくなった。