非科学論理と呼べるか



 たぶん忘れられているのだろうな、と真っ暗になってしまったロータリーに立ち尽くしていると、ひょろりとした影がわたしに近づいてきた。腕時計を見つめる、いつもの何億倍もお洒落をしたわたしに気付いているのかいないのか、彼の声は変わらない。いつもと同じ何気ない調子でわたしの隣にふらりと並び、そのたびに背の高さとスタイルのよさにいつもわたしが新鮮に愕然とすることも彼は気づいていないのだろう。

「こんな時間にどうしてん、終電なくなんで」
「さっきなくなりました」
「マジで?」
「多分、すっぽかされた、ので」
「……いつまで待つつもりやったん」

 いつまでも、空が白むまで、と本当のことを言える勇気はわたしには存在しておらず、また躑躅森さんもそれを聞き出すほどのなにかを持っているわけでもなかった。正直、数度顔を合わせたことがある程度の人間が、あまり良い形ではない人間関係、というか恋愛に陥っているからといって、こんな顔が出来るだろうか。そう他人事のように真摯に考えてしまうほど、躑躅森さんはほんの一瞬だけ絶望を濃縮させたように顔を歪めていて、しかもわたしはそれに気付いてしまった。
 顔を合わせるたびに、躑躅森さんがどれほどの善人なのか、突き詰めれば優しすぎて人を傷つけるほどの人なのかもしれない、などとなんとなく考えたことを思い出す。それが自分の身に、永久に関係の無い事柄だと心の底から確信したまま。
 彼はそっと腕に巻いたそれなりにお高そうな腕時計で時間を確認したあとに「こんな時間に一人で?アカンやろぉ、」と、はっきり言葉を発した。今まで脳内でイメージしてきた躑躅森さんの声よりも些かしっかりしている強い声、そこには少なからず、さながら忠犬の如くこの場所であの人を待つわたしに対する非難も含まれていて、そこに少し安心してしまったのも事実だった。
 わたしの不毛な恋愛について、親しい人間であれば親しいほど、何度もわたしを説得し失敗し、いつの間にか誰も触れなくなっていた。たとえば今日が土曜日で、日曜日に女友達と会う約束をしていたとして、疲れ切った顔で待ち合わせ場所に現れても女友達は今更もうなにも言わない。
 いつからかこんな風になってしまっていたのだ。陰でどんな風に言われているのか、あの人にも、そして大切だったはずの友人たちにも、どう思われているのかも考えるのは止めてしまった。ただ自分が会いたいから、この場所で待つ、呼ばれたら向かう、都合がいいと言われても、それ以上、それ以外のことが考えられない。

「今からどうすんの」
「タクシー拾って、帰ります」
「何時から待ってんの」

 何時から待っていた、なんて現実を知るみたいで怖くて答えられない。考えることすら止めていた事実に呆然としていると、彼はわたしの手首をがしりと掴んだ。その手の力はあたたかくやわらかく、久しぶりに人の体温に触れたような錯覚を覚えるほどだった。躑躅森さんはわたしの手首をまるで熱を持った手錠のようにゆるく、でも確実に繋げたまま、言葉を重ねる。

「飯、食うてないよな?」
「……まぁ」
「悪いけど、付き合ってくれへん?一人で飯行くの、俺あんま好きちゃうからさあ」
「あの」
「皆さっさと帰ってん、付き合い悪くて堪らんわ、ホンマひどい話やろ?」

 するり、と熱を持った彼の指先が手首から離れると、両手を拝むような形にして彼はこちらを見つめる。美しい建前、そして逃げることの出来ないようにきっちりと敷き詰められた言葉に包まれたわたしがぼんやりと頷くと、躑躅森さんは華奢なチェーンの付いた眼鏡の奥でゆったりと微笑んだ。いつもだったら、温和だとか柔和というふうに感じた笑みが、今日だけはなぜか神様のようにも見えた。神様のように器が大きいという意味ではなくて、今までもこれからもひっくるめた全てを知っているような、そんな深い微笑み。
 頷いたわたしの手首を(断固として手を握ろうとはしないまま)掴んで、ロータリーに連なっているひとつのタクシーに乗り込んだ。躑躅森さんが乗り込んで、手首を掴まれたわたしも一緒にするりとタクシーに入ってしまう。もし、今、あの人から電話がかかってきたら。こんな時までも愚かな考えが拭えずに、携帯を掴んでいようとするわたしの手を彼の手が押し留めた。

「帰るまで、没収」
「あの、」
「自分は大事にせなあかんよ」

 わたしの携帯を奪った、恐ろしいほど細く長く美しい指先の余韻と柔らかい微笑みに言葉を失う。タクシーのドアはゆっくりと閉まって、もう決まっているらしい行き先をすらすらと躑躅森さんが告げるのを呆然と聞いていた。

「帰りに、携帯返して、って俺に言うてな」
「はい」
「忘れて帰っても俺はええけど、困るもんなぁ、流石に。仕事とかあるやろ」

 もう彼の鞄に収められてしまった携帯電話は、触れられなく、出られなく、知れないのならば無いことと同じになってしまう。手元からなくなった途端、携帯の中にいるのかもしれないあの人の痕跡すらもないことと同じになる、ということに驚いた。

「躑躅森さん、って、彼女いるんですか」
「おるで」
「いいですね、彼女さん、めっちゃ羨ましいです」
「ウソ。今はおらんわ。おったら流石に女の子とこんな時間に飯行くとか、なぁ」
「嘘とかつくんですね、躑躅森さん」
「俺かて嘘くらいつくわ。まぁ、もういい大人やからな、色々しますよ、いろいろ」

 するり、と滑り込まされた躑躅森さんの指先が、わたしの指先に語りかける。触れただけで、どうして彼が伝えたい言葉がわかるのか、本当ならわからないはずなのに、わかってしまう。躑躅森さんは悪い大人ですか?そう訊いてみたかったけれど、柔らかく笑って流されるだけだとも知っていた。それならば、この包み込むような指先から流れてくる、微弱な電気のように心まで痺れさせるときめきを信じて、流されてみてもいいだろう。
 ネオンライトに照らされている、飄々とした彼の横顔をわたしは息を詰めたまま見つめていた。見詰められていることを知っているはずの躑躅森さんが、一度わたしの手をやさしく握って親指で甲をそっと撫でる。ずるいほどに大人なその体温に、忘れていたはずの有り触れた愛情を思い出してしまった。ゆっくりと背もたれに身体を預けて、目を閉じて、そっと息を吸う。

「着いたら起こすから」
「はい」

 躑躅森さんのすべてを見透かしたような言葉にわたしはひどく安心した子供のような返事をして、ゆっくりと目を閉じた。