・譟的な存在構造



 しょぼしょぼと弱いくせに持続性だけは異常にある短い花火を、ふたり並んでただぼうっと眺めていた。一郎の視線はわたしを射貫かない。もっと遠く、前をいつも見つめていて、それが一郎の正しさを証明しているようで、どうしようもなく安心する。

「喧嘩でもしたのか」
「……なんで」
「いや、顔見たら分かるって」
「……っていうか、空却がさ」
「アイツ、絶対ちげえよな」

 わたしがバケツに、というか一郎に逃げたとき、花火が消えた瞬間に空却はわたしを追うようにバケツに花火を突っ込んだ直後、そのままこちらに背を向けて歩き出した。どこ行くの、とわたしも一郎も訊いたけれど、いつもよりやけに大きな声で「便所」と言い放って、ズボンのポケットから取り出した携帯を触りながらさっさと歩いて行ってしまったのだ。
 確かに、喧嘩といえばそうなのかもしれない。もし彼が怒っていて、わたしに対してのフラストレーションを消化するためにどこかへ行ったのだとしたら、の話だけれど。空却の声が、まだ耳に残っている。「なんで、アイツ見るとき、そんな顔すんだ」、いつもの悟ったように余裕綽々なものとは似ても似つかぬそれは、単純な疑問を孕んだ響きには聞こえなかった。どちらかといえば余裕のない、そしてまるでこちらに縋るような、懇願するような、そんな声色をしていた。もしかしたらそれも、気のせいかもしれないけれど。

「ねえ、わたし、一郎のことどんな顔で見てる」
「いや、知らねえけど」
「だよね」
「あー、でも、空却のこと見てるときと、俺見てるときは違うよな。でもそんなの当たり前だろ、違う人間だし」
「……だよね!」
「ま、そういう意味で言ったんじゃないと思うけどな」

 空却に負けず劣らず、神様みたいになんでも知っていると思わせる雰囲気を纏うことがある一郎は、わたしにきちんと釘を刺して会話を終わらせた。持っていた花火の光が消えて、流れ作業のように一郎が使い終わった花火も受け取ってわたしはバケツの中に二本の花火を沈めると、空却とした花火の数と、一郎とした花火の数が同じになったことに気づく。また同じしょぼしょぼとした花火を手渡されるのかと思ったら、彼がわたしに差し出したのは長手牡丹の線香花火だった。

「これ、最後にやるやつじゃないの」
「まだあるからいいだろ、どうせまだアイツ戻らねえし」

 ジッ、先程とまったく同じ音でライターを弄った一郎の指が器用に二つの線香花火に火をつける。タイルひとつぶんの距離のあるわたしたちは、ただどちらが先に膨らんでいく火の玉が落ちるのかを観察するようにひっそりと息を詰めていた。たぶん息をひそめるために線香花火を選んだのだろう、というほどに言葉も呼吸もなく空気は微塵も揺らがない。ふたりともが動かないし喋らないから余計に線香花火は長持ちして、ただひたすらに火の玉が膨らんで、繊細な火花を散らして、でもいつか、それは絶対に落ちる。

「……
「ん?」
「あ、落ちたぞ」
「え、ずるくない」
「ずるくない」

 ふいに呼ばれた名前に、反射的に上半身ごと身体を向けると火の玉がぽとりと落ち、一郎が子どもみたいにいたずらっぽくにやりと微笑んだ。飽きずに「不正だ」「違うだろ」と繰り返し話している中でも、彼の火の玉は本当にいつ落ちてもおかしくなくて、けれどまだぎりぎりのところを保っていて。惜しかったなぁ、なんて気の抜けた声を上げながら線香花火をバケツに入れると、一郎が「あ」と声を上げる。振り返らなくても分かるけれど、同じようにバケツに入れなければならないから、と身体を一郎に向けると、先程の子どものような顔つきの一郎が火の玉の落ちた線香花火を握ったままじっとこちらを見ていた。

「なぁ」
「……ん?」
「今、びっくりした」
「え?」
「その顔、俺にもするんだな」
「顔?」
「なんか、の、ほんとにガキみたいな顔」
「なにそれ、貶してる?」
「いや、褒めてる」

 抑揚のない一郎の声質や文字を、繋がっているけれどゆったりとしたリズムが混じり合う、やけにその声は柔らかくあたたかい響きに変化する。ふわふわの綿雲につつまれているような、心地よくて、けれど確実に説得力のある声。

「もっと、そういう顔、俺も見たい」

 手元にある花火を、と手元を見てもなにも持っていないわたしと、紫色のライターを軽く握りしめて柔く笑う一郎の声が公園の中で消える。わたしにだけ届いて、届いたのを見届けたら、役割を終えてすうっと消える、わたあめみたいな、やさしい手紙の声。返信はどんな声にすればいいのだろうか、あまりに繊細で甘いから、言葉が出てこなかった。考えて、考えて、けれどわたしと一郎の間の沈黙は苦ではない。空却との沈黙は苦、というよりまず生まれないから考えたこともないけれど。返信に正解はない、という部分に志向がまとまった頃、摺り足のようにスニーカーがコンクリートを蹴る音が聞こえた。

「花火しろや」
「してたらしてたで文句言いそうな人ナンバーワン」
「比較対象、大していないだろ、友達少ないくせに」
「実家の檀家にならよーけおるわ」
「それほんとに友達か」
「……いや違うでしょ。一郎、線香花火対決やり直そう」
「はぁ!?拙僧抜きで線香花火したのかよ!テメェら最低だな」

 コンクリートに転がっているライターと袋をばっと手に取った空却はそう声を上げて、わたしたちの目の前にしゃがみこんだ。「ほらね、怒った」一郎を肘でつついて小さく笑うと、「まあ、わかってたけどな」と彼もちょっとだけ笑った。空却は運動会の徒競走に参加する少年のような顔で「おら、やんぞ」と声を上げると、いの一番に一本の線香花火を抜き取って火をつける準備を始める。わたしが次、一郎がその次に同じように抜き取って、空却は手持ち無沙汰なのかくるくると手の中でライターを弄んだ。

「お前ら先につけろ、拙僧最後な」
「……ずるくない」
「そんくらいええがや」
「いや、いいんだけど、勝ちに拘りすぎて引く」
「うるせぇな、ちゃっと出せ」

 わたしと一郎は顔を見合わせて笑って、その時ようやくふたりの表情が見慣れたものに戻っていることに気付く。「いくぞ」これからの人生の中で何回でもできるはずのことを、こうやって一生に一回しかないみたいに顔を突き合わせて行うなんて、わたしたちはなんて贅沢なことをしているんだろう。息を詰めるのと、息が詰まるほどの幸福はやはり、どうしたってまったく違うのだ。ただ子どものように笑う空却と、大人びた笑みを見せる一郎と、中途半端なわたし。
 線香花火は順番に火がついて、どんなに慎重をかさねたとしてもぜったいに落ちてしまう。知っている、知っている。赤い花火が柘榴のように飛び散って、しょぼしょぼと弱々しく消えたのと同じように。
 けれど今夜はまだ、きっと、違うはずだ。そう信じきることを決めたわたしの背中を押すように、ジッと音を立ててライターの火をつけた空却は、今にも罰ゲームを提案しそうな悪どい顔をしたまま、先ずわたしの線香花火に火をつけた。