厭世的な俗世感情



 やけに閑散とした夜の公園は、少し遠くでスケートボードの練習をする音だけが聞こえていた。先程までは若者の話し声も聞こえていたけれど、今聞こえる人の声は目の前のふたり、そしてスケートボードの音も今はもう聞こえない。
 一郎はしゃがみこんで黙々と花火のパッケージの裏面を携帯のライトで照らして内容に目を通したり、バケツの水量について空却に尋ねたりしていた。大きすぎねえか、とわたしが買ってきた花火の袋にけちをつけながら、持参してきたらしいライターを空却は何度も掌の上で転がしている。「大は小を兼ねるでしょ」と断言するわたしに「まあなぁ」と同意のような聞き流すような声を一郎は上げ、少しの間静寂が三人の中を包んだ。一本試しにと適当な花火を引き抜いて、すこし距離を取り花火にライターで火をつけた瞬間、空却がふと思い出したかのように声を上げる。

「なぁ、なんでここって花火大丈夫なんだ」
「床コンクリだから」
「あー、つーか、わざわざ見つけてきたのかよ」
「まぁ、っていうか調べれば出てくるだろ」

 手元から噴き出した火花はコンクリートの上で散らばって消えていき、大丈夫そうだ、という認識が三人の中ではっきりと生まれたのがわかった。結構きれいなものだな、と先程の花火の赤い光を思い出していると、ふたりはバケツの前でぽつぽつとなにやら話し込んでいる。



 男同士の話に入り込む気はなく傍観を決め込んでいたわたしは、一瞬、どちらが自分を呼んだのか理解できなかった。声はまったく違うはずなのに不思議と響く温度がよく似ているのだ、ふたりの声は、ほんとうに恐ろしいほどに。
 先程試した時にばちばちと赤く広がった手持ち花火とライターを握りしめてやってきた空却の顔でようやく、ああ、彼がわたしを呼んだのだ、と理解する。いつもならもっと不機嫌というか、なぜ自分が持ってこなければならないのかという表情をするはずの空却が、なぜか仏様みたいに穏やかな顔でこちらへやってきてわたしに花火を一本差し出した。一郎は大した距離じゃないのに、まるで弟と妹の会話が成立するか心配する兄のような顔でこちらを見ていて、ふと空却の肩越しに目が合った。視線が混じり合った瞬間に一郎は眉を下げ、悲しいような困ったようなよくわからない表情で目を逸らすと、まだたくさん残っている花火の袋の裏面を意味もなく熟読しだす。

「なんであっち見てんだよたーけ」
「内緒」
「わざわざ火ぃつけたったろと思って来たらこれかや」
「ありがとー、つけてつけて」
「ライター使えねえってなんだよ」
「銀の歯車みたいなのがついてるやつはダメ、普通のならできるよ」
「はぁ?何が違ぇんだよ。拙僧相手にかわいこぶんなっつの、しょーもな」

 言葉の鋭さはいつもと同じで、けれどどこかトーンの低い声だった。空却がジッと、音を立てて当たり前のようにライターに火をつけてみせる。

「ちゃっと出せ」
「はい。あっ、うわ、……おお」
「んだ、そのリアクション、でらとろくしゃあ」
「リアクションにダサいとかないから、っていうか、凄いね、こんなだっけ」
「さっきのと同じやつだろ」

 わたしの手元でばちばちと火花が赤く弾けて、それを見てなぜか急に柘榴の実の断面図を思い出した。空却もそのあと当たり前のようにちゃっかりと持ってきていた自分の分の花火にも火をつける。ばぁぁぁ、っと広がる黄色い花火は弾けるというよりも飛距離が少し長く彗星の尾のように真っ直ぐ光っていて、空却自身も少し驚きの声を上げたけれど、すぐに慣れてしまったのかくるくると丸を描くように手を動かしていた。ばちばちばち、音を聞きながらただ手を前に出して、てのひらで握りつぶした柘榴のことや、花火の温度のことを考えているわたしとは大違いだ。鮮烈なまでの生命力を感じさせる彼の瞳と同じ色の火花。黄色い光はまるでスポットライトで、夜の静かな公園の中でただひたすらに円を描く空却の横顔が光に照らされる。ちょっと綺麗に見えて、悔しい。悔しい、というのはたぶん正確な表現じゃなくて、空却にそういう風に心を乱されたくないのだ。もう消える、とわたしになのか、自分になのか分からないけれど、空却の声がちいさく、だだっ広い公園に響いた。

「じゃあ、ほら、一郎のとこ戻ろ」
「なぁ」
「どうしたの」
「お前、そこ、動くなよ」

 わたしの花火は勢いが最初から弱く、終わりも弱いせいかいまさらしょぼしょぼと萎れるように消えていく。空却の花火は最初から最後まで同じ強い勢いで、一瞬で、直線で、まるで空却そっくりで、赤い花火はわたしに似ている。消えた花火を持ったまま立ち尽くしたわたしを置き去りにした空却は、まだポーズとして花火の袋を眺めている一郎のところへ声をかけた。ふたりでやってくるのかと思いきや、一郎は一本、そしてもう一本と違う種類らしい花火を袋から抜き出して空却に渡す。一郎の顔ははっきりと見えるのに、暗いからと言い訳させてほしい、本当はライトがあるから見えるけれど、まったく表情が読めないのだ。わかった気になれないその顔と、軽く片手を上げて感謝の意を示しているらしい空却の背中。一郎の横に置いてあるバケツに使い終わった花火を放り投げて、空却はこちらへやってくる。二本の花火、反対の手でもてあそばれる紫色のライター。

「一回それ置け」
「ここでいい?」
「どこでもええがや」
「うん」
「おら」
「あ、りがと」
「気ぃつけろ、手、前に出しとけ」

 「、ビビりだからなァ」なんていつもならきっと茶化してくるはずの空却は、ただ、青年期の男子の声でそう言うだけ。聞こえた声と静かな微笑みがどうしてかわたしの知る空却には見えなくて、いつの間にかひとり花火で遊びだしている一郎を見ながら、花火を掴んでいる手を前に出した。

「おい」
「これ以上は伸びないって」
「違ぇわ。お前、今隣にいるの、アイツじゃねぇぞ」

 ジッ、ライターを弄る金属の音がして火花が弾ける。たぶん聞き返されたくはない言葉なのだ、と先程空却がつけていた花火が真っ直ぐに黄色く光っている中でわたしは考えていた。空却も追うように花火に火をつけて、今度はその赤い光をゆっくり上下に動かしたあと、手を止めて、まるで線香花火を見るような目をした。
 近くにいるのにとても遠い、そんな瞳のまま、光り続ける花火ではなく、隣にいるわたしを彼が見ているのが分かる。わたしの横顔はどんな風に見えているだろうか。一瞬はそんなことも考えたけれど、数メートル先でひとりわたしが持っているものよりしょぼしょぼと弱い光を散らす花火をまるで小さな動物を見るような瞳でじっと見ている一郎の横顔につい目がいってしまう。そんなわたしの視線を見透かすように、空却のつけた花火がばちばちと先程のものより広がって、でも同じくらい強く光って。

「なぁ、訊きたいことあんだけど」
「なに?」
「なんで、アイツ見るとき、そんな顔すんだ」
「……え?」

 先に消えたのはわたしの花火で、ばちばち、まだ光と音を放ち続けている花火を気にも留めていない空却は、こちらをただひたすらに見ている。消えた花火と、コンクリートの地面に落とした花火を拾い上げて、「水、つけてくる」そう言ったわたしはいつの間にかバケツに、一郎の方に向かって、走り出していた。