鞄を置くという行為には、殆ど意味がない。場所取りという名目は階段教室の長い机、しかも授業開始十分前の教室でも尚目立つ空席のせいで使えない。つまりそんな状況で一番端に座らないだけで、誰かと待ち合わせをしていることは一目瞭然となってしまう。それでもそうしてしまうのは、もはや癖だった。毎回、少しばかり期待をしている自分への言い訳。有り体に言ってしまえば、格好つけて、さりげなさを装っている。そこまで理解しているというのに、認めるほどの自信はない。
普段は深く座る椅子に浅く腰掛けた入間銃兎は、そのまま軽く咳払いをしながら僅かばかり背もたれに体重を預けた。収容人数だけを追求した木製の椅子は簡単に滑る仕様で、身体がそのまま前にずれこむ。だらしのない体勢はあまり好きではなかったけれども、なんとなくそうしないと落ち着かない自分がいた。ゆっくりとした動作でルーズリーフやボールペンを机に広げる。眼鏡のブリッジを押し上げた時、「おはよ」と自分の鞄を断りもなしにどかされながら挨拶を受けた。
「おはよう。もらうぞ」
そうして、自分との二人分の鞄を逆側の椅子に置く。二度手間だ、とやはりその行為は無駄でしかないことを再確認している間に、座ったがその瞬間なにかに気付いたようにぱっと顔を横に向け、銃兎と視線を合わせてきた。
「どうした?」
「……銃兎もしかして」
最初は何かを探るような表情から、思いついたと目をやや見開き僅かに距離を詰める。首を傾げると耳にかけていた髪がさらりと落ち、その様子があどけなさを引き連れてくる。対照的にきらりと耳朶で光るピアスはシンプルで控えめ、年齢としては少し似つかわしい程に高価であることが輝きから分かった。
「香水変えた?」
やや微笑みながらの質問に、動揺した心臓が小さく跳ねた。
「あ、ああ……におい、きついか?」
香水を習慣的につけるようになったのは、煙草を吸うようになってからだった。勿論、喫煙者になったのは成人後の話である。分煙を強いられる昨今のご時世に煙草を吸い続けるメリットというのはさして多くない。しかもたばこ税やら健康被害やら身に纏う特有の匂いによる他人からの印象やら云々を鑑みると、正直デメリットの方が多いと感じてしまう。けれども一度癖になってしまったものから抜け出すことは容易ではないし、だからそれは趣向というよりも、どちらかといえば限りなくエチケットに近い。
とは言え、先述したように身に纏う香りが自身への印象を左右させることは知っていたため、近所のドラックストアなどで量産されている安価なものではなく、割りと時間をかけ慎重に慎重を重ね厳選した。だから一度これと決めた香水を変えることはこれまでなかったし、実際、今日が初めて変えた香水をつけたばかりだった。けれども香りの成分自体は殆ど変わらずやや清涼感が増した程度で、銃兎自身もつけてみて違和感を覚えない程には、似ている香りだった。
だから出会った瞬間気づいたに、もしかすると意識しないところで普段より多くつけすぎてしまっていたのではないか、と少しばかり憂慮が襲う。
「ううん、そんなことないんだけど」
「けど?」
「いつもの銃兎の匂いと違うな、と思って」
髪を耳にかけながらポケットから取り出した携帯電話を机の上に置き、銃兎のルーズリーフをスリーブから一枚抜き取る。逐一了承を取らなくとも、それはもうお互いにとってはごくごく自然なことになっていた。最初は遠慮していた様子を見せていたけれども、季節が巡り夏がきて、秋がきて、冬を迎える頃にはその遠慮を拭い取ること自体が配慮だと思うくらいには一緒にいる事実に、ふと目線がふたりぶんの鞄に向く。
言い訳も、格好つけも、さりげなさも。本当に無意味だ、と思えば急激に気恥ずかしさを覚えた銃兎は、授業開始のチャイムを聞きながら、ほんの少しだけとの距離を詰めた。じんわりと胸中に灯るあたたかさと、耳と首の裏に立ち上る熱には気づかないふりをして。
先ほどまでは何の主張もしてこなかったはずなのに、新しい香水の香りは、少し身動いだだけで、まるで気づけと言わんばかりに銃兎の鼻腔を掠めてくる。