夏のおもいで



「これ今日中に終わるかあ?絶対無理じゃね?」

 山田くんはデッキブラシを片手に溜め息を吐いてたけど、その意見にはわたしも深く頷きたくなった。こんなだだっ広いプールをたったふたりで掃除しようなんて、正直ウチの担任は頭がどうかしているとしか考えられない。この間の模試を欠席した者は、と一方的に割り当てられた放課後のプール掃除。ただ、模試を欠席したのは絶対にわたしと山田くんだけじゃなかったはずなのに。

「他の人、誰か来ないかな」
「絶対来ねーって。な、俺らも帰んない?」
「……それはちょっと気が引けるかも」
「ほんっとそういうとこ真面目だよなあ」

 山田くんはどこか呆れたような顔でわたしを見ていた。両の手の指に光るシンプルなシルバーのアクセサリーが太陽の光に反射して、その眩しさに少し目を細める。校則違反だよと言いそうになって、慌てて視線を外した。デッキブラシに力を込めてゴシゴシと藻のような苔のような緑色を落とすように磨きながら、背中に容赦なく刺さる太陽の熱を感じる。首筋に伝う汗の不快感を夏の暑さごと拭い取るようにタオルを押し付けて、また俯いて清掃作業に取りかかった。

「……さあ、確かこないだのテストめちゃくちゃ順位よかったよな」
「……テスト?」
「そうそう。中間テスト」
「んー、そうかな?そんなでもないよ」
「や、俺からすれば考えられねー順位だし」

 自分の成績をひけらかすような真似をしたことはないのだけれども、一体どこから漏れたのだろうと一瞬考えて、結果が廊下の掲示板に貼り出されていたことを思い出した。あの晒し者システムはいい加減に廃するべきだと思う。掲示されるのは上位だけとは言えども、その上位に位置する生徒からしたら堪ったもんじゃない。
 あっつい、と誰に向けるでもない僅かな苛立ちを孕んだ言葉が、無意識のうちに口からこぼれ落ちる。額に浮かんだ汗をてのひらで拭って頬についた髪の毛を払って、それでも、わたしは山田くんの方を見ようとはしなかった。

「今度さ、勉強教えてくれよ」
「……山田くんに?」
「うん」

 どういう風の吹き回しだろうか。テスト返却のたびに各教科の先生から点数の低さを窘められている山田くんの、笑って誤魔化しつつも諦念が浮かんだ表情を見て知っているだけに、突然そんなことを言われたからつい驚いて山田くんの方を振り返ると、彼もちょうどこちらを向いていて、ばちりと目線がぶつかった。なんだか無性に恥ずかしくなって、バレないように睫毛を伏せてから誤魔化すようにデッキブラシを忙しなく動かす。山田くんもわたしと同じ動作をしているはずなのに、手の大きさも足のサイズも全然違うせいか彼のデッキブラシはすごく軽い力で汚れを落としているように見えた。

「……わたしが?」
「迷惑か?」
「えっ、いや、迷惑ではないんだけど、びっくりしたっていうか」

 この先はなにを言っても山田くんに対して失礼になる気がする、と思って口を噤む。彼の濡羽色の髪の毛は太陽の光で濃い藍色も見えた。頭のてっぺんから汗だくなわたしと同じくらいに汗をかいているはずなのに、その髪は彼が動くたびにサラサラと繊細に揺れている。

「……のこと知りたいんだけど、それって、迷惑?」
「えっ」
「プール掃除、他のヤツに俺が頼んで帰ってもらった、……って、言ったらどうする?」

 山田くんは教室にいるときとはまったく違う、ずっとずっと真剣な顔でわたしを見ていて、思わず言葉に詰まった。宝石みたいにきらきらと煌めく緑と黄金の瞳を見て、吸い込まれそうな瞳というのはこういうひとのことを言うんだろうな、と暑さでうまく回らない頭を必死に働かせながらもぼんやり考えていた。一歩ずつ徐々に距離を埋めてくる山田くんに対して、つい後ずさりしてしまうわたし。つるりと足を滑らせた瞬間山田くんに手を引かれて、ひっくり返って頭を打ちそうになった体勢と、山田くん細いのけれどもしっかりと力強い腕とに、驚きすぎて心臓が止まるかと思った。

「……あっぶな」
「あ、りがとう」

 ばくばくと早鐘を打つ心臓をなんとか鎮めようとしながら、至近距離になってふと気付く。山田くんはすごく良い香りがする。香水とかそういう類のものではない、たぶん市販の制汗剤とかの匂いのはず、なんだけど。

「返事、すぐじゃなくていいから」
「……えっ、うん?」
「楽しい夏になったらいいな、

 しっかりと地に足をつけて、向き合って、そうして、ほんの少し困ったように眉を下げた山田くんから優しくきれいに微笑まれて、強く手を握られたら。どちらのものかも既にわからない、熱すぎる体温に気づいて、もう曖昧に笑うしかない。
 プール掃除は到底終わりそうにないし、どこか遠くでセミの鳴き声が聞こえる。相変わらず陽射しは肌を刺すように暑くて、けれども、流れる汗はどこか清々しい。夏は、まだまだ始まったばかりだ。