ハロー・キスミー



 生まれて初めて、いわゆるアダルト動画を見た。
 クラスメイトの女友達に、は純粋すぎるからこういうのも少しは見た方が良いよ、と言われて恐るおそる開いてしまったページだった。男と女が恋をして、セックスをして子供が出来る。そこまではさすがに無知でばかな自分でも知っていたけれど、恥ずかしながらやり方は全く知らなかった。こんなことを言ったら、クラスのませてる友達に笑われるかもしれない。初めて知った大人の世界は、なかなかに衝撃的だった。それを見て、好奇心と同時に怖さも感じた。わたしも、二郎と、いつかこういうことしちゃうの?貧相な身体を見せて、変な声を出して、裸になって抱き合うの?うまく想像ができない。というより、したことないんだからどう想像をしていいのかがわからない。二郎も、本当はこういうことをしたいんだろうか。そう考えたら、途端に、二郎と会うのが怖くなった。

「……?」

 英語わかんねーから教えてくれよ〜!と言われて、仕方がないなぁ、いいよと答えた二日前の自分を全力で殴りたい。むしろ二日前に戻ってその約束を断りたい。いやいや、よりによって二郎を家に呼ぶ前日にエロ動画を見てしまった自分をぶっ飛ばしたい。なんだかなにもかもうまくいかなくて、会話もぎこちないしうまく話せない。自室の折り畳み式の丸テーブルに広げた英語のテキストも、内容が全く頭に入ってこない。
 だって、これは、昨日見たエロ動画と同じシチュエーションじゃないか。高校生のカップルが、彼女の部屋で一緒に勉強をしていて、なにやらいい雰囲気になりキスをしてベッドに押し倒す、そこから先はチョメチョメ。

「さっきから変じゃね?ぐあいわりーの?」
「……いや、全然変じゃないし」
「そーかなぁ」

 シャーペンをくるくると回しながら二郎が不思議そうに首を傾げる。いかんいかん、覚られてはいけない。勝手に変な動画を見て、勝手に自分と重ねて、二郎とそういうことしちゃうんじゃないかって、勝手に怯えてるなんてばかみたいだ。

「熱……はないよな」
「!?」

 ぼんやりしていたら二郎の腕が伸びてきて、ぺたりとおでこに彼の手のひらがくっついた。びっくりしすぎて、慌てて手を振り払って後ろに下がり、二郎と距離を置く。すると彼もまた驚いた顔をして、それからあからさまに眉を顰めた。

「あ、……ご、めん……」
「いや、べつにいーけど……なんかあった?」
「……」
「今日の変だし、ずっと俺のこと避けてる」
「……ごめん」
「ううん。……俺、なんかしたっけ?」

 なんかしてたらゴメン、と言って二郎はまたシャーペンを握った。テキストの英文をなぞる横顔が、明らかに肩を落としていて胸が痛くなる。ああ、違うのに。二郎はなんにもしてないのに。昔から彼は優しすぎるのだ。だからきっと、わたしがなにか言うまで、二郎もきっと、なにも言ってこない。かり、と二郎がシャーペンを動かす音だけが狭い部屋に響く。ひとりで焦って、ひとりでどきどきして、ばかみたい。どうしようもなく情けなくて、悲しくなってくる。

「……?」
「……、うっ……」
「は!?なんで泣いてんの!?」
「……ご、めん」
「おおおおおいおい泣くなよ!?なんで!?そんな具合悪い!?」

 あたふたと慌てた二郎が枕元のティッシュを数枚取ってわたしの頬を掴むとごしごしと目元を拭った。手つきは乱暴なくせに、わたしの名前を呼ぶ声はとても優しい。小さな頃から、わたしはその声がだいすきだった。

「じ、じろは、」
「ん?」
「……わた、わたしと、えっちしたいって思う?」

 勇気を出して言ってみた言葉が思ったよりも部屋に反響してしまった。下の階にいる母親にまさか聞かれていないだろうか、と不安になってしまうほどには。数秒の沈黙の後、二郎はぼぼ、と音がするくらい急に顔を赤くして、目をざぶざぶ泳がせながらあわあわと息を詰まらせた。ぐしゃぐしゃに丸まったティッシュが、フローリングに転がっている。

「な、に言ってんだよ、急に……」
「だって、周りのカップルは、みんなそういうことしてるんじゃないの?」

 ずっとずっと小さな頃から、手は繋いで歩いていた。一緒にお風呂に入ったこともあるし、着替えだって同じ部屋でしたことがある。キスだって、きっと記憶にないだけで、とっくの昔に二郎と済ませてるんだろう。
 そうだ。本当に赤ん坊の頃から、二郎のことはなんでも知ってる。だから、知らないことを知るのが怖かった。知らない自分を二郎に見せるのも怖かった。

「……は、そういうこと、してーの?」
「わ、たしは……」
「うん」
「……二郎とでも、まだ、怖い」
「……うん」

 曖昧に笑ったかと思えば、二郎の大きな手のひらがわたしの頭をくしゃりと撫でた。そのままわしゃわしゃと、まるで犬のように撫で回される。されるがままにしていたら、すっかり鳥の巣みたいになった毛先がいろんな方向へぴょんぴょん跳ねた。

「まあ、あれだよ。……したくない、っつったら嘘だけどさ」
「……」
「でも、みんながしてるから、とか、そういう流れでするのもなんか違う気がするし、あー……、うまく言えねえ」
「……なんとなく、わかるよ」
「だからつまり、が嫌がることは無理にしないから、別に怖がる必要はないってこと」

 散々ぐしゃぐしゃにされた頭をぽんぽん、と二郎は優しく撫でた。さっきまであんなに真っ赤だった顔はやたら落ち着いた色っぽい表情で、心臓がきゅんと高鳴る。

「っつーかさ〜さっき振り払われたときマジでショックだったんだけど!目も合わせてくれないし、マジ心折れるかと思った」
「う……、ごめんね」
「許さないって言ったら?」
「ええ〜……困るよ」

 なぜか妙に楽しそうな二郎がけらけらと目を細めて笑った。こうして見ていると、やっぱり二郎の笑顔がすきだなぁと思う。二郎が笑えばわたしも嬉しいし、二郎が楽しいならわたしも楽しい。
 そんなことを考えていたら、ふいにちゅ、とくちびるが重なった。

「……え、」
「まあ、今回はこれで許そうかな」

 楽しそうに笑う笑顔が一番すきだけれど、照れたみたいに笑う顔もすきだ。笑顔だけじゃない、きみの全部がすきだ。
 だから、いつか全部を見せられるまで。もうすこしだけ、待っててね。