いつぶりかわからない彼の車の助手席は、恐ろしいほどわたしの身体に馴染んでいる。
いや、わたしの身体が忘れていないだけで、そういった意味でも、身体というものは正直なのだろう。シートベルトを締めると、一郎はカーナビに触れることなく車を出発させた。真っ暗な夜の道、あと何分でわたしの家に辿り着くのか、一郎は分かっているのかもしれない。
たくさんの星を包んだ彼の美しい瞳は闇のなかをまっすぐに見つめていて、わたしに興味を払っていない分、彼の美しさは引き立っているように見えた。
「久しぶりだよな、俺の車」
「そうだね」
「なんで乗ったの」
「なんで?」
「そう、なんでかなって」
さっきまで遠くにあった信号は目の前で、車は減速し、誰も歩くことのない横断歩道を眺めるように停車した。
「……まあ、普通に期待してるけどな」
「なにを」
「んー、なにかなぁ、」
信号が変われば車は進み、そこまで饒舌ではない一郎はぽつりぽつり、とわたしに話しかけてくれる。自分の日常の話やわたしの仕事の話、雑談、最近買ったラノベ、録画で見た深夜アニメの話。
いつもと同じ、場所が車に変わっただけ、先程決めたことを実行するだけ。そう心の中で繰り返してみるけれど、できる気が全く起きない。口ばかりだと誹られ石を投げられるよりも、山田一郎という人と、歪になってしまったこの関係を切り離すわけにはいかないのだ。一郎はわたしのすべてではないし、わたしも一郎のすべてではないけれど、きっと無くなってしまったら、世界の色のひとつは確実に消えてしまうから。
「俺さ、ずっと言いたかったんだけど」
「……うん」
「すげえ聞きたくないって顔してる、……言うけど」
「してないよ」
「してるって、わかる、俺、結構のこと見てるからさ」
自慢でも、虚勢でもなく、ただ当然だと思っているような声が車の中でふわりと広がって消えていった。一郎の声が溶けて消えて、車の音と、わたしのすこし浅くなった呼吸が響いている。彼は前を見たまま「緊張しすぎ」そう言ってちょっとだけ唇の端を上げた。
「そんなに俺と付き合うの、嫌なわけ」
「……え?」
「嘘だろ、彼氏って。俺、同じ男の話聞いた」
両手から片手にハンドルを握り直しながら、付け足すように共通の女友達の名前を挙げた。最初は考えすぎだと思ったんだけど二股っぽくもなかったし、見てたらなんとなく分かってさ、一郎はあっけらかんと笑った。共通のと言っても一郎とわたしとほかの何人かで飲んでいる中でも言葉を交わしたシーンすら見たことのない、全くと言っていいほど親しそうには見えなかった女友達と知らぬ間に一郎が接点を持っていることに、図々しいながらも心が爛れるような気持ちになってくる。自分のことを棚に上げて嫉妬という感情を持て余し、エンジン音だけが響く車でわたしはひたすらの沈黙を貫いていた。たくさんの罪悪感と見破られた気恥ずかしさと同じくらい、彼の掌の上という素晴らしい場所で転がされていたのだという心地よさが一気にやってくる。けれど、半分の心地よさに微睡む余韻も余裕もあるわけがない。
先程彼が放った不意打ちの質問に、嫌かと訊かれたら、反射的に嫌と答えてしまいそうだった。学生のころから好きで好きで好きでしょうがない、一生離れることがないとお互い話していた人。それは男女問わず、いつも当たり前のように数年経てば、いやもっと短い時間でも、夢から覚めるように甘くとろけるような感情は消え、寧ろ嫌悪のようなしこりだけが深く根強く残る。
深すぎる友人関係やきちんとした恋人というものは依存に酷似していて、甘いぶん黒くどろりとした何かを残し、いつも終わりを迎えた。恋愛や結婚などという世間一般でステータスであったり安定とされるようなそれらを本当に愛している人と行った場合、失うか死ぬまで一緒かのふたつしかないのだ。死ぬまで、わたしは彼を、彼はわたしを、愛しているわけがないのに、いつかお互いを憎むくらいなら、無関心になるくらいなら、最初から愛し合っているなんて思わない方が絶対にいいに決まっている。
「付き合ったら、別れるか、別れないか、どっちかしかないんだよ」
「おう」
「一郎とは別れたくない」
「まだ付き合ってないだろ」
「そうだけど」
「なんで別れんの、」
「わかんない」
「わかんないのに別れんの?」
言葉のあや、とちいさな声で呟くと「んー、まあ、わかるけどな」と一郎はなにもかもを見透かしたように優しい声を出す。猫を撫でる様なやわらかい声で、いつもわたしをまるごと包んでしまう。
「嘘ついてごめん」
「すぐ嘘ってわかったからいーって」
「すみません」
「むしろ、なんでそんな嘘つくんだって気になってて、どうせ今日もなんか俺に言うつもりだったんだろ」
「なんでわかるの」
「だーかーら、見てるって言ったろ、なんかわかんだって、のことは」
車はいつの間にか見慣れた大通りを走っている。駅前を通り抜け、街燈の多い道を走りあと数個の信号とコンビニエンスストアを過ぎれば目的地だ。すいすいと容赦も遠慮もなく信号は青になり、殆ど止まることなく車はわたしのマンションを通過した。
「一郎!?」
まるで見えていないか知らないか、そんな様子で車はマンションの前を通り過ぎて、ファミリーレストランのある奥の道へ突き進んでいく。この車はどこへ行くのだろう、澄ました横顔からは何も読み取ることができないけれど、一郎はちらりとわたしを一瞥した。
「え?そのまま帰すと思ったわけ」
「……う、うん」
「ちゃんとしなきゃな、俺らのこと」
「おれらのこと」
「幸せにするから。それじゃ、駄目かよ」
「……一郎」
「俺は、好きなのにといられないことの方が怖いし嫌だ。嫌いならいいけど、もしそうじゃないってんなら、俺を信じて欲しい」
月のない道、通り過ぎたことのないコンビニエンスストアの白い光、すぐに抜けてガソリンスタンドは真っ暗。一郎の声は月の光みたいに車に差し込んで、ゆっくりと揺蕩う。わたしが呼吸をして言葉を探す、箱の中でひとつひとつ手探りであれでもないこれでもないと漁って、適切な言葉を探すわたしを、一郎はただ、夜という空気の中を流れ漂うように静かに車を走らせて待っている。本当は、箱の中にも手の中にも適切な言葉はひとつも入っていない。いつからか思い出せないほどずっと、喉元で零れないように押さえつけて、けれど確実に消えることもなく存在していたたったひとつの気持ちを伝えればいいだけだと知っている。
「お手数おかけしました」
「いーよ、別に」
「一郎、好き」
「おう」
「でも、一郎、女の趣味超悪い」
「へえー知らなかったな」
にやり、と不敵に笑った一郎はまだ夜の道を走ることをやめる気はなさそうだった。明日のことや仕事のことを持ち出すなんて、あまりにも野暮で早すぎる。浅はかで幼いわたしと、あまく優しく不敵な一郎、空が白むまでは、この小さな密室ではじめての時間を過ごそう。
信じて欲しいという誠実な言葉が脳みその端で揺れている、きらきらと、魔法のように光っている。
一郎は本当はどこかのプリンスで、彼の手を取ったら絨毯で空すらも飛べるのかもしれない。わたしの身体にすぐに馴染んでしまった車の中で目的地も言わないまま車を走らせる横顔を見て、ああ好きだなあ、そう呼吸をするのと同じくらいの密度で思う。今までもずっと、息をするのと同じように愛しさを感じていたのに、知らないふりをしていただけだ。
きっとわかっているんだろうな、今、好きだって思ったのも。それが心地良くて、背もたれにしっかりと身体を預けてひっそりと息を吐いた。
一郎はちいさく喉を鳴らして「もう少し走ってもいいか?」とわたしに尋ねてくれた。ノーという選択肢がないことも知っていて問いかける意地の悪さはしっかりと携えたままの一郎の声に頷くと、「ちゃんと話せて良かった、すげえスッキリした」と当然のように言って、車はまたすいすいと誰もいない夜を進んでいく。
わたしは彼のそのあっけらかんとした声に、いつだって救われている、と気付くのだった。