イカレ商人の一日は長い



 予定があるからこの日は会えない、と彼女に断りを入れられていた日がたまたま同人誌即売会の開催日で、たまたまその即売会でひっそり応援している人気サークルの新刊が発売されるという情報をSNSで入手して、これは朝イチで並び死んでも買わねばならぬと心に決めたイベント当日、始発組に混ざって一般入場し右を見ても左を見てもオタクなおびただしい人波に揉まれながら目的のサークルに足を運んだ先にいたのが自分の恋人だった場合、これは一体どうすればいいのだろう。

「い、いちろうくん……」
「……、か……?」

 今回俺が死んでも買うと決めていた目的の新刊を手にしているの顔は客観的に見ても可哀想なくらいに青褪めていた。きっと俺の顔もに負けず劣らず青くなっていることだろう。周囲ではひそひそと「バスブロじゃん」「えっ山田一郎?」「本物?コスじゃなくて?」という会話が耳に入ってくる。ていうか壁サーかよ。ちょっと設定盛り過ぎじゃないか?
 というか、というか、だ。

「……なんっっっで左馬刻のコスプレなんかしてるんだ……!!」

 思わず顔を両手で覆いながら地面に膝をついて崩れ落ちる。なんならorzのポーズになってしまいたい。OMGとはこのことだ。自分の喉から切実を滲ませたひどく悲痛な声が漏れる。ついでに左馬刻の格好をしたの口からもヒェ、とか細い悲鳴が漏れた。お願いだからその姿でそんな声を出さないでくれ。
 普段肩甲骨辺りまで伸ばしている栗色の艷やかなセミロングは特徴的な触覚のついた銀色のショートウィッグに覆われ、くるくると丸っこくて可愛い碧眼は真っ赤なカラコンに隠されている。垂れ目気味の目尻はテーピングで吊るように引っ張られて、上下の睫毛も瞬きをするとばさばさと音が鳴るのではないかと思う程の長さと質量だ。いつぞやのライブ衣装を模したブルーのシャツに黒いジャケット姿なのは、あの悪趣味なドクロの描かれたアロハではどうしても軽装かつ薄手すぎて華奢な体格を誤魔化せないからだろうか。ここまでバッチバチにメイクまでしてどこからどう見ても紛うことなき左馬刻の姿だというのに一目見ただけでそれがだとわかってしまった自分にも心底動揺している。俺の姿を見た瞬間にそれが"山田一郎のコスプレ"ではなく"山田一郎本人"であると直様理解し顔色をさっと変えたにも一因はあるのだけれども。いや、そもそもが俺の知っている左馬刻ならばこんなオタクの巣窟に来るはずがないとわかっているからこそかもしれない。TDD時代にも何度推しジャンルを布教して「オタクきめぇ」と言われたことか。
 の隣で乱数のコスプレをした売り子らしい人がものすごい顔で目をひん剥いて俺とを交互に見ている。ここに寂雷さん本人或いは寂雷さんのコスプレをした人が入ってきたら疑似TDDの完成だ。勘弁してくれ。これを地獄絵図と言わずしてなんと言うのだろうか。
 思えば、俺の一つ歳上でOLとして働いているは事務職の割に月に数回のジム通いをこなして余りある程度には体力があって(決して事務とジムを掛けているわけではない)、ところが季節の変わり目になると頻繁に睡眠不足を滲ませた疲れ切った顔をしていて、彼女の部屋には一体どれだけ四季折々の服を持っているのだろうかと疑問を抱くレベルの大きなウォークインクローゼットがあって、年度末が近づくと必ず神妙な顔をしながら確定申告をしに役場へ行っていた、ような気がする。それらはつまるところ、事務職の割に体力があるのはこうしてイベントに参加しているからで、季節の変わり目になるたびに睡眠不足に陥っているのは原稿の締め切りがあるからで、部屋にあるウォークインクローゼットにはコスプレ衣装が詰め込まれていて、毎年確定申告を行っているのは仕事の給与以外での収入が少なからずあるから、ということだろう。
 それならばやけにオタク文化への理解と含蓄があるのも普段のメイクが巧いのも、以前ちょっとしたきっかけで描いてもらった好きなラノベの推しキャラの絵がプロかと間違う程に上手かったのも頷ける。コスプレをするにはキャラクターに成り切るためのメイク技術が必須で、絵が上手いのはそれでサークル活動をしているからだ。というかその時点で気づけよ俺。推しサーだぞ。気づけよ。
 理解はした。一先ず理解はした。けれども、理解をすることと納得することは全くの別問題だ。

「い、いちろうくん、一郎くん!とりあえずそこだと邪魔になっちゃうから!こっち!こっち入って」

 俺より一足先に状況を整理し我に返ったらしいが困ったように眉を下げてサークルスペースへ入れと手招きをしている。正直、左馬刻の格好をして左馬刻の顔をしたの姿への強烈な違和感と嫌悪に似たなにかが脳の正常な判断を妨害しようとしてくるけれども、確かにこのままでは通行人及び周囲のサークルへ迷惑を掛けかねない。いちオタクとしてそれはいかんと震える脚を叱咤するように一発パァンと腿に平手を入れて立ち上がると、腿を叩く破裂音にびくりと肩を揺らしながらも乱数のコスプレをした売り子さんがサークルスペースに入れるように設営の机をずらしてくれた。そそくさと狭いスペースに身を滑り込ませて、すんません、と会釈をすると乱数(この表現だとやや雑すぎるけれども、正式に書くと文字数が増えていく一方なので仕方ない)は薄らと目を細めて呆れたような表情をして首を横に振った。

「よくわかんないけど、たぶんが悪いんでしょ。ヤマダイチロウがサマトキと犬猿の仲とかフツーに周知の事実だし」
「さっちんひどい」

 淡々と手元の電卓へ数字を打ち込みながらも眉を下げて非難の声を上げるを黙殺して、さっちんと呼ばれた売り子さんは机の下に置いたダンボールから新刊の束を取り出して空になった段ボールを潰しながら処置なしと言わんばかりに溜め息を吐いて肩を竦めて見せる。あ、今のちょっと本物の乱数っぽかった。
 話しながらでも頒布の手は決して止めない様子に場馴れとプロ意識を感じて暫くぼんやりと眺めていたけれども、そこで俺も漸く当初の目的を思い出した。そうだ、新刊、新刊だ。

「河原福楼先生!頒布手伝うんで新刊2部取り置きオナシャス!」
「えっなに怖い、山田一郎順応性めちゃくちゃ高いじゃん、怖い」
「一郎くんにハンネ呼ばれるのなんかやだなあ……」

 複雑そうに顔を顰められながらも拒絶されなかったことに内心ほっとする。TDD時代を知る人間はもしかしたらこの組み合わせに沸くのかもしれないし、オタクとしては需要と供給のバランスは保たないとな、まあいくら姿が左馬刻だろうが中身がであることに変わりはないし、うん、などと誰に対して弁明しているのかもわからない言い訳をつらつらと脳内で述べていると"さっちん"さんが真顔で後方の荷物置きスペースを指差した。

「風邪じゃないならその明らかに度の入ってない伊達眼鏡外してそのへんに置いて。あとその地味なパーカーも脱いで、バスブロのコスプレ衣装があの紙袋に入ってるからそれ着て。せっかくなら"山田一郎"として対応してよ」

 頒布の手を止めることなく続く言葉に躊躇いは微塵もなかった。オタクは往々にして強かである、と改めて思い知った瞬間だった。