急転直下午前零時



「ずっとね、山田くんに謝りたかったの」
「……何を?」
「嫌な思いさせてごめんねって」

 目立つ人と目立たない人。勉強ができる人とできない人。学生時代には大抵なにをやってみても「できる」か「できない」かで区別されてしまうから、だから、あんなに苦しかったのかな。わたしはずっと"そうじゃない方"だったから、だから、ずっと息が詰まりそうだったのかな。

「何の話?」
「……覚えてないなら、別にいいけど」

 そう言って、うまく笑えたかなって少しだけ不安になった。まるで、覚えていてほしかった、みたいな。そんな言い方になってしまっていたことに、自分が一番驚いてしまった。わたしは彼にいったいなにを期待していたんだろう。求めるだけ無駄だということは、ずっと前からわかっていたのに。
 数年振りの同窓会、久しぶりの再会を手放しで喜ぶことができないのは、心が大人になりきれていないからだって。そんなことを考えながら隣に座る山田くんの端整な横顔を見る。同級生、クラスメイトだった、そんな薄く淡い繋がりだけで、わたしは現在の彼のことをなんにも知らない。たとえば、どんな女性と恋愛をして、誰を大切に想っているのか、そういうことを、なんにも。

「お酒、強い方?」
「知らないけど、普通じゃね。は?」
「強くはないかなぁ。酔うと寝ちゃうんだよね」
「寝たら置いて帰るわ」
「えっ、ひどい」

 、って、山田くんの口から吐き出された自分の苗字、たったそれだけのことなのに、わたしの矮小で現金な心臓は簡単に高鳴った。あの頃過ごした教室とまったく変わらない喧騒を持った居酒屋の店内。懐かしい顔ぶれ。懐かしい声の響き。胸を叩いて熱くなる喉元を隠すようにカシスオレンジを飲み干して、テーブルに置かれたメニューに手を伸ばす。

「俺ビールで」
「じゃあ一緒に注文するね」

 山田くんはそう言い残すと別のテーブルから来た同級生に引っ張られて向こうへ行ってしまった。わたしは店員さんに声をかけてビールとハイボールだけを注文すると、メニューをテーブルの隅に戻す。それからしばらく、山田くんが席に戻ってきたことに気付かなかったのは、山田くんが座っている場所とは反対方面にいたかつてのクラスメイトとのお喋りに夢中になっていたから。店員さんがいつの間にか持ってきてくれてテーブルに置かれたままになっていたビールとハイボールは、寄り添うように並んで少し汗をかいていた。
 それから山田くんとも、もちろん他の人とも、たくさん近況報告だったり思い出話をして、地元の小さな居酒屋を貸し切って行われた同窓会がお開きになったのは、じきに日付が変わろうかという頃だった。明日は仕事だったし、二次会には参加しないことを幹事に告げて、たいして飲んでもいないけれども、なんとなく酔いを冷ますように最寄り駅まで歩くことに決める。

帰んの」
「うん。明日仕事だし」
「駅まで歩く?送るわ」
「えっ大丈夫だよ!山田くん、二次会参加組でしょ?」
「いいから」

 ちょっと話したいことあるし。そう山田くんがぼそりと呟いた声はわたしの耳には届かないまま、ぎこちなく並んで歩き始める。今はどこの辺りに住んでるだとか、家から会社までの所要時間が長くて引っ越しを考えてるだとか、差し障りがなく取るに足らないそんなことばかりを話していたら、山田くんが急に足を止めた。

「山田くん?どうしたの?」
「……俺さ、ずっとに言いたかったんだけど」
「……なに?」

 微妙な沈黙が流れたのもつかの間、ひやりと冷えきって澄んだ空気を切り裂くように、山田くんの静かな声が響く。山田くんの表情とか、右と左で色の違う瞳が今までとはどこか違うことには、すぐに気がついた。言いたかったこと?山田くんが、わたしに?

「今日会ったときにさ、最初にが言っただろ。俺に謝りたかったって」
「……え?うん」

 どこかバツの悪そうな顔をした山田くんが、気まずそうに視線を彷徨わせてわたしから目線をずらす。

「多分、それ、俺のセリフ」

 って山田のこと好きらしいよ。
 そんな噂を流したのはいったい誰だったんだろう。結局それを知るすべはなかったけれども、当時はものすごく恥ずかしい思いをしたし、当然嫌な気持ちにもなった。それでもわたしは、その噂をくだらないと一蹴することも否定の言葉を出すことも、なんにもできなかった。だって、山田くんのことを好きなのは、紛れもない事実だったから。周りからおもしろがって冷やかされたりからかわれたり、本当に、本当に散々な思いをして、わたしの初恋はあっけなく破れて散った。青少年特有の、青っぽい含羞に流されて、息を吸って、吐いて、からだの内側で見つけた情熱を、ただひとつのことに傾けるしかできない日々だった。
 山田くんからしてみれば、突然あんな噂を流されて巻き込まれて被害者になって、相当迷惑な話だったと思う。だから歳を重ねた今、きちんと会って謝りたかった。その反面、山田くんにとって、わたしは忘れたい同級生の断トツ一位なんだろうなと、会いたくない人間のひとりなんだろうなと、そう、思っていた。

「……覚えてたの?」
、その、悪い」

 山田くんがわたしに頭を下げる。かける言葉は全く見つからないし、どうしたらいいかわからないのに、心はひたすらに強く揺れている。
 タイムスリップでもしたみたいに、心もからだもなにもかも、あの頃に戻ったかのように思えた。向けられる彼のまなざしの逐一に含まれていたもの。毎晩、このからだの底を泳いでいたもの。

「やめてよ。嫌な思いさせたのはわたしの方なのに」
「いや、違う。そうじゃなくて」

 俺も当時、素直になれなかったから。本当に可愛くないヤツで。山田くんが顔を真っ赤にしながらどうにか言葉をつむいでわたしに伝えようとしているのはなんとなくわかって、けれどその内容は極めて予想外だったから、開いた口がふさがらない。

「……わたしのこと、好きだったの?」

 かあ、と山田くんは健康的な色の肌を耳まで赤くしてわたしを見る。閉じていた唇が重たく開いてこぼれたのは、わたしの当時の思いをすべて塗りかえるような言葉。こころを、距離を、空白を、わたしと山田くんの間に横たわる、ありとあらゆるものものを薙ぎ払って。

「……悪い。めちゃくちゃ好きだった」

 山田くんからそう言われた瞬間、がくりと足の力が抜けてへなへなとその場に座り込んでしまった。通行人の目は少なからず気になったけれども、そんなの、もう今となってはどうでもいい。うわ、どうしよう、ちょっと泣きそうだ。

「……ほんと?」
「あん時、言えなくて悪かった」

 しゃがみこんだままのわたしの目の前に立って、手を差し伸べてくれる山田くん。その瞳はひどく優しい。その瞳を、その手を、そのからだを、こころを、わたしはずっと、ずっと望んでいたのだった。

「立てるか?」
「……立てなかったら置いて帰る?」
「バカ。どうにかして連れて帰るよ」
「……山田くんが優しい」
「あん時冷たくしてたから、今日は特別」
「今日だけ?」
「……いいから、早く立てって」

 山田くんに掴まれた腕をぐいと引かれてなんとか立ち上がった。まだ酔いが冷めていないのか、それとも今の空気にあてられているのか、立ち上がった拍子にほんの少しふらついたわたしに、歩けるか?と訊いてくれる彼の声も眼差しもやっぱり優しくて、当時からわたしの人を見る目は間違ってなかったんだなあと、ひっそり自画自賛。飲み直すか、と山田くんから提案されたから、迷わずうんと縦に頷いた。

さ、何で俺のこと好きになったわけ」
「……しょうもないって笑うから言わない」
「は?なんだよそれ」
「そんなことで好きになったのか?って山田くん絶対言うもん」
「……まあいいよ。後でゆっくり聞くからな」

 あの日、落としたプリント拾ってくれたから、なんて。そんなの、きっかけが些細すぎて言えるわけないじゃない。掠めるように触れた指が冷たかったのを、今でも鮮明に覚えている。口を噤んで、今でもひんやりとしている山田くんの手に引かれたまま次の場所へ歩き始めた。
 こんなの、まるで恋人みたい。やだなぁ初恋なんて、とっくの昔に終わったはずだったのに。