昨日の夜、携帯に表示される一時間ごとの天気予報に睨みをきかせていた彼女は今、俺の定位置であるソファを占領して身体を横たえぐったりとしている。
夕方六時以降から雨という予報だったはずなのに、朝七時に窓を開けた瞬間には空は曇天、もう道々の人は傘を広げていたらしい。
床に叩きつけて広がったスライムみたいになったままの彼女の顔をソファーの背もたれ越しに覗き込むと、化粧はばっちり仕上がっている。マスカラで伸びた睫毛はダマになることもなく綺麗に、もはや威嚇するみたいに上を向いている。白い肌に乗せられたカラフルな色が顔の血色を良く見せており、その理論と技術と熱意は空却や十四ならばいざ知らず、あまり俺には分からない。
それでも、まぁ、気合が入っていることと、その化粧が彼女の研究における成果であることくらいは分かるので、いつもそれなりに褒めたりしている。反面今は俺の褒め言葉ですらスライムになったの耳に届く前に、じゅっと溶けて消えてしまうだろう。
「久々の外デートがぁ……」
「起きて雨だったんだろ、なんでそんなバチバチに化粧してんだよ」
「……獄さんが起きたら晴れるかもしれないって思ったの」
「俺を神様かなんかと勘違いしてんのか?」
「晴れ男だって信じてたのに」
スライムというよりも、もうあとは細く切るだけの丸いうどん生地みたいにぺらぺらになった彼女が手を振り上げてばたつかせる。
確かに最近は家でだらだらすることが多かったけれど、そもそも寒かったのもあったし、旅行の都合は互いの仕事の関係上尽く合わなかったのだ。平生であればこんな子どもじみた駄々を捏ねることも、外という場所に執着することも少ない彼女にも思うところはあったのだろう。
俺には我慢ならないモンが二つある。一つは人でも物でも何でもブランドにばっかり群がる女、二つは仕事とプライベートに於ける優先順位と時間の使い方に理解が無い女だ。毎回こうであればきっと俺は直ぐに耐え兼ねて音を上げてしまうだろうと、俺も、彼女も分かっている。けれども逆に付き合ってから初めて見るその光景はいたく珍しく、仮に言ったら怒るだろうことは分かった上で考えるならば酷く滑稽だった。それは馬鹿にする意味では決して無くて、きちんと自分を律することの出来る女だと思っていた彼女のその体勢や言動がシュール以外の何物でもなかったからだ。
ただそんなことを言ったって、俺は神様でもないし、例え彼女の言うように晴れ男だとしても今から天気を変えることなんて出来やしない。というか、晴れ男云々というのはどれくらいの信憑性があるのだろうか、今度空却にでも訊いてみようか。なんてことを考えながらそっとチークで桃色になっている彼女の頬を指先で突き刺す。むにゃりと餅か饅頭みたいに柔らかな感触、黒く鋭く引かれたアイラインが大きな黒目の、こちらを見るじっとりとした視線を強調してみせた。
「拗ねんなって」
「……うん」
「向こう三十年くらい一緒におったらこういう事もあるだろ」
「三十年?」
「俺が今三十五だろ、流石にあと三十は生きると思うが」
「獄さんはもうちょっと長生きしそう、八十くらいいったりして」
「も負けんなよ」
「誰に?」「俺に決まっとるがね」そう答えると、彼女が平べったい生地から一瞬で人間の形に戻ってむくりと起き上がった。夜は殆ど同じ時間に寝たというのに、よほど楽しみだったのかやけに元気が有り余っている。綻んだ口元を隠そうともせずに立ち上がって、大きく伸びをした。
「じゃあなにしよっか」
「いつも通りでいいんじゃねえの」
「なるほど。コーヒー貰っていい?」
「おう。適当に持ってけ」
飛び上がらんばかりの足取りでキッチンへ向かう彼女の後姿、セットされた髪の隙間から見慣れたピアスが覗いている。きらりとした金属の輝きが目に入り、冷蔵庫に彼女が辿り着くよりずっと早く、俺は自分でも驚くほど大きな一歩を何個か重ねてその背中に手を伸ばした。小さな手を掴むと、気温が低いせいか指先が真冬の日のように冷たかった。
獄さん?と俺を呼ぶ声がいつもより少しあどけないのは、スライムになっていた時の名残だろうか。お出かけ仕様のグロスでいつもよりつやつやとしている唇を見下ろして、いつもならそのべたついた感じや違和感のある味を疎んで止めるはずのキスをした。予想通り、唇に塗るものとしては優れているのかもしれないけれど些か不快感を覚える程度にはべたべたとしているし、味は煙草やコーヒーとは全く違うどこか薬品臭のする人工的な苦みとしか言いようがない。また徐々に身体がやわらかく、水分を含んだみたいに溶けていくが俺の肩の下あたりの服を両手で強く掴んで、目を見開く。
多分、とんと身体のどこかを押したらすぐに倒れてしまうだろうと容易に想像がつく、ぎりぎりのバランスで立っている。まるで唇についている苦い薬を全て剥ぐみたいに、俺は二度目のキスを意識的に深くおこなった。腕と背中辺りを何度も彼女が叩いて、けれどいつもと同じようにすぐに静かになって、またスライムに戻りかけた彼女の手を引いて立たせる。
「不味いな」
「保湿効果はあるの」
「もっと無味なやつとかないのかよ」
「……知らないよ」
言葉とは裏腹に俺の口角は上がりきっていて、隠すつもりもない。深い意味も意図もなく、まるで王子のように俺の手は下に、彼女の手はその上に、重なるように置かれている。お姫様をエスコートする王子様のような体勢だというのに、当のお姫様は至極満そうに潤んだ目で俺をじっとりと睨んでくる。実際は彼女に睨み付けられたところで効果はあまりない。寧ろ加虐心だけが更にそそられてしまった俺は、顔を数センチだけ背けた彼女の、その分良く見えるようになった耳にそっと触れる。
羞恥からか赤く染まった耳朶を指先でふにふにと摘まみながら、「次は晴れるから元気出せ」と声をかけると「もうどうでもいい」と、潤んだ目で俺を気丈に睨み付けたのとろりと甘く蕩けきった声が返ってきた。