左手を飾る



 かたん、と、小さく音を立てて目の前のソファーが僅かに揺れた。人が座ったせいだ。けれども生憎、わたしはこの土地にふらっと来てふらっと良さげなカフェに入っただけであって、待ち合わせもなにもしていない。ぱっと顔を上げると、目の前に座ったのは端正な顔立ちをした綺麗な男の人だった。

「ここ、座ってもいい?」
「……あの」
「大丈夫、別にとって食ったりしないからさ。あ、すみませんアイスコーヒー」

 お昼時からほんの少しだけずれた時間帯で店内は決して空いているわけではなかったけれど、まだ空席がいくつもある。わたしの座る席は三、四人用なので多少相席したりしても平気なのだけれども、それにしても、この人の目的がわからない。思わず身体が強張って身構えてしまう。すると、男の人はからっと笑って、大丈夫だよ、と繰り返した。

「俺、あー……、有栖川。ぎりぎり二十代。きみはいくつ?あ、ナンパとかじゃなくて、単純に敬語使った方がいいかなってこと」
「……、同い年ですけど……」
「そっかタメかー、ね、なんか好きなもんある?俺、釣り超好きなの。好き?釣り」

 彼は話術があった。嫌悪感を抱かせることなく、おもちゃ箱のように楽しい話がぽんぽん出てくる。嫌だったら今すぐ帰ってもいいよ、と彼は話し始める前にそう言ったけれど、その言葉の裏には帰らせないという絶対的な自信も見えて、わたしは素直に残ることにした。

 彼の話は単純に面白かった。どこから得たものなのかは知らないけれど、たくさん興味深い話をしてくれて、彼は自分のことをたくさん話したけれど、彼個人を特定できるようなことはなにひとつ話そうとはしなかった。同時に、わたし個人を特定するようなことを訊くこともなかった。
 話していて不快感がなかったのは、彼がわたしに対して、異性であるという下心のあるアピールをしなかったことだろう。そして、お互いの個人情報をなにも持ち帰ることのない話しかしていないことも理由のひとつだと思う。
 とにかく彼は明るくて、ただ自分を知らない人と話そうとしているような、そんな印象を覚えた。

「ハーブティーにラベンダーそのまま入れたの?それって匂いは良くても苦くない?」
「それはそれで、イタズラ成功じゃん」
「ふふ、……」
「……あのさ」
「ん?」
「どうしてここに来たの?」

 ここに?
 言葉の意味がわからず首を傾げると、彼は、「あ、いや違くて、」とぱっと顔を上げた。なぜこのカフェに来たのか、ということらしい。
 わたしがこのカフェに来たのは、完全に偶然だ。ただ、今日起きたとき、なんとなく出かけようと思った。外に出たら勝手にふらふらと歩き出していて、迷子になって、そこで隠れ家的なここのカフェを見つけて入った。ゆっくり甘いものでも頂きながら、帰り道を調べようと思っていたのだ。そのことを話すと、彼は黙ってそれを聞いていた。

「……握手しよっか」
「え?……いいけど、なに?」
「指輪外すから待ってね……、はい」

 狭いテーブルの上で手がゆっくり重なる。彼は指輪を外したけれど、わたしの左手の薬指には残ったまま。だけど彼はそれをなにひとつ咎めることはなかった。彼の手は男性らしく雄勁で柔らかくて、けれど、苦労を知っている手だった。彼は握手した手をじっと見つめ、そしてゆっくりと解き、手のひらを合わせて指を絡ませた。

「……ありがとう」
「……え?」
「話してくれて」

 なんのことだろう。
 雰囲気がよくわからなくて、誤魔化すように、「有栖川くんは?」と訊いた。わたしのことは話したよ、次は有栖川くんが話すべきだよ。そう言うと、微笑んで、そうだね、と呟いた。

「去年の今日、すげー仕事詰まっててさ」
「……うん」
「でも俺、どうしても行かないといけなくて、超頑張ったのよ。嫌な予感がしてたの、俺の前からいなくなるってそんな予感……、いなくなってほしくなくて、絶対俺が幸せにしたくて、……すげー高かったけど、欲しがってたやつも用意して、さぁ言おうって」
「……、」
「でも結局行けなくて……行こうと思えば行けたのに、行かなかった。緊張してたから、たくさん言い訳して逃げたんだよね。まあいいやって。今度会った時に改めて言おうかなって。でも、間違いだった」

 彼は、今にも泣きそうに、それでいて幸せを思い出しているかのように目を細めて微笑みながらわたしをまっすぐに見つめていた。ぱち、ぱち、と頭の中で火花が散るような感覚が過る。

「……結婚おめでとう、。幸せになって」

 気が付けば、彼はいなくなっていた。残されたのは、少しも口をつけなかった彼の頼んだアイスコーヒー。そして、わたしの薬指に嵌められた銀色が、ふたつに増えていた。夫との愛の印。そして、もうひとつの銀色こそ、彼の遺したものだった。

 今日、わたしは、ここに来なければいけないと思ったのだ。知らないはずの道を勝手に進む脚が、ここへ来て、まるで勝手知ったる場所のように、一人で来たにも関わらずこの大きい席へ座って、用もないのにずっと一人でここにいた。どうして忘れていたんだろう。彼のこと。わたしのこと。今日この場所で、彼を待っていた去年のこと。
 去年の今日。彼が来なかったら、わたしは親に決められた人と結婚すると決めていた。忙しいと知っていて、大事な話があるからと呼び出した去年の今日。
 嵌められた指輪は、いつかのわたしが、どうせもらえるはずがないと思ってわざとねだった高いブランドのもの。本当は、どんなに安い指輪でもよかった。ずっとずっと、あなたからもらう特別な指輪が欲しかった。けれどきっと、あなたはくれないんだろうなと思ってしまった。けじめをつけたくて、あの日あなたをずっと待っていた。けれどあなたは来なかった。悲しくて、寂しくて、それがあなたの答えだと思った。

「──……一二三……、」

 今になって店を出ても、どれだけ泣いても、もう、あの日のわたしを遮ってプロポーズしてくれるはずだった彼はどこにもいない。ただあの頃の馬鹿なわたしが遺した、彼の証拠だけが現実に重なるようにそこに嵌まっていた。