痛みを感じて金色のキャッチを引き抜くと、静かに、そして丁寧に両耳のピアスを外した。引き抜いた金色のポスト部分に付着した赤黒い液体を見なかったことにして、蓮の花弁を象ったピアスをそっと手元のポーチに押し込む。久方ぶり、といっても一週間もないほどしか付けていなかった期間はないはずだというのに、開けてから何年経ってもこういうことが度々起きるのだ。
座禅のように胡座をかいて黙々と携帯ゲームの端末に視線を落とす空却に気付かれないように引き寄せた鞄のなかにポーチを押し込んで、また遠ざけるように置く。彼の横顔、通った鼻筋、二重瞼の幅、それらをぼんやりと眺めながら耳朶に触れるとまたちいさな赤が付着して、ティッシュをわざわざ引き出すのも煩わしくなってかき消すように人差し指と親指を擦り合わせた。
ゲーム機のボタンを素早く連打するカチャカチャという音を聞きながら、わたしは身体をソファの背もたれに預けて、かちりかちりと動く時計の針を眺めた。左手首に巻き付いた小さな時計と同じリズムを刻む部屋の時計を、ただ、息を詰めて眺めて、次第に飽きて瞼を閉じる。重ねて塗ったマスカラが重く、着用時間の長いコンタクトのせいで目は疲れ切っていた。ふう、とも、すう、ともつかない息をそっと吐きだす。プラスチック筺体特有の軽く、けれど耳に残るようなボタンの操作音をBGMにして。
「……び、びびった」
「ピアス外したんか」
「え、……あ、ちょっとね」
「うわ、お前、膿んどるがね」
いつの間に終えたのか几帳面に電源を落としたゲーム機をテーブルに置いた空却が、そのままわたしの耳朶にもう一度触れた。ピアスホールを避けるようにそっと耳朶の端を無遠慮に引っ張って、猫のような鋭さを持った金色の瞳がすべてを吸い取るみたいにわたしの耳の輪郭をかさついた指先でなぞる。
当然のことながらわたしは自分で自分のピアスホールを、耳朶の様子を窺うことはできない。五秒ほど耳朶を引っ張ってじいと眺めていた空却が、乱雑に立ち上がって部屋の奥に引っ込んでいく。他人の部屋だというのに勝手知ったるといった様子で歩き回る彼を咎める気は今更起きない。空却に気付かれていなかっただけですぐに膿んでしまうわたしの耳朶の血と膿にはもはやなんの感慨もなく、痛みすら慣れっこだった。
ただ無表情のままテーブルにアルコール消毒液を置いた後、洗面所で手を洗ってこちらへ戻ってくる彼の珍しく引き結ばれた唇に、わたしは言葉を紡ぐことを忘れてしまう。ティッシュペーパーを小さく折り畳んだ上に消毒液を垂らして、エタノールが含まれているせいで冷えたそれでわたしの片方の耳朶を包むようにする。痛ぇか?と問いかける声がまるで自分が痛みに耐えているかのような細さだったものだから、わたしは首を振りそうになったのを寸前で止め、声だけでううん、と答えた。丹念に拭い去るように耳朶を挟んだティッシュペーパーをそっと取り外した空却の僅かに下がった眉と、ティッシュペーパーに付着した赤い色が視界に入る。空却が帰ってから外せば良かったのだ、それか、大ぶりのピアスなんてやめればこんな顔は見ずに済んだのに。
「左も見せろ」
「はい」
「いつ開けたんだ」
「えーと、高校卒業してすぐ」
「頑丈そうに見えて意外と皮膚弱ぇんだな」
「一言余計」
「こっち向け」
正面に向きかけた顔を彼の指先で右向きに簡単に押し戻される。黒のポリッシュで彩られた爪の先が、あたたかい指の腹が、顎に触れて、思わず心臓が跳ねた。平生の図々しさみたいなものを微塵も感じさせない、眉を下げた彼の殊勝さに対する申し訳なさみたいなものを忘れて、いとも簡単に心を浮足立たせてしまう。
当事者よりも他人の方が人の身体や心を憂慮するのは、他人の痛みは決して同じ温度や質量では分かり得ないからで、同じ理由で他人の身体や心をいとも簡単に傷つけることが出来ることも知っている。空却も、彼の仲間である十四くんも、獄さんも、たぶん、そのことを人よりも痛烈に経験していた。自由に好き勝手に生きているようで反面篤実な空却は常に軽率とは程遠いところにいて、賢い彼はいたずらに他人を傷つけることはしない、絶対に。
だからなのか、はたまたそれ以外にも理由があるのかはよく分からないけれども、空却は丁寧に手を洗って、ティッシュペーパーに消毒液を垂らしてわたしの耳朶を冷やす。表情だけ見れば本当に僧侶らしいとも言える、とてもとても真剣な目で。平生滅多に見ることのできない息を詰めた空却を見ながら、わたしはまるで他人事のように笑って、けれど多分、まだ血はじわじわと染み出している。
「痛くないよ」
「俺と会うときはピアス止めとけ」
「そしたら塞がっちゃうよ」
「塞いじまえ」
「やだ、ピアス可愛いもん」
「血ィ出してまでつけるもんじゃねぇがや」
「空却に言われたくない」
自分の行く末は自分が決める、というのを基本的な信条として掲げている彼なのでこれ以上わたしに口を出す気もないのだろう。「透明なポストのとか軽いのなら血出ないから」と返すと、彼は本当に不承不承といった様子で「そんならええけど」と頷いて、左耳に抑えつけていた指先を離した。右耳よりは滲んでいない血の色を見て分かりやすい安堵を瞳の奥に浮かべる彼を見て、わたしは思わず笑ってしまう。もう大人なのに、ピアスをつけて耳の膿んだわたしは子どもみたいで、けれどそんなわたしを見た空却はわたしと然程歳も変わらないというのに大人の立場で子どものように困惑しきっている。
きちんと石鹸で洗った耳朶はすぐにピアスホールを塞ぐから、先程の空却の言った頑丈と言う言葉は強ち間違っていない。頑丈だから塞がって、それを阻むようにポストを通せばまた血が出るというのもひどい矛盾だ。
正方形に畳まれ豆粒のような量の血がついた二枚のティッシュペーパーが、丁寧に、けれど些か疎まし気にゴミ箱に押し込まれる。またゲームに戻るのかと思った空却はただ身体を背もたれに預けて時計の針をじっと眺め、なにかを言いたげに唇をもごもごと動かした。
犬歯がちらちらと覗く薄い唇で空却がなにを言うのかは分からないけれど、どんな言い方だったとしても言葉の真意はひとつであると傲慢にも考える。わたしよりもずっと痛みを伴ったであろう彼の両耳に付けられた夥しい数の黒いピアスと耳朶に大きく開いた穴を眺めながら、彼が前置きのように呼ぶわたしの名前を、ただ、耳を欹てるようにして息を殺して聞いていた。
すうすうとして、じんわりと滲みるような痛みがあり、彼が不器用に治療してくれた耳朶を自分の身体のなかでなによりも一等に尊いと感じながら。