今にも首からぽろりと落っこちてしまいそうな項垂れた横顔に満ち足りた感情を覚えるのは酷く醜悪だと分かった上で、夜を睨み付ける獣のような眼に堪らず笑いが込み上げた。
身体の奥底からふつふつと湧き上がる感覚は、ただの理解者気取りな男の独り善がりな自己満足だ。身動ぎひとつしないでベンチに腰掛ける脚のなだらかな曲線がやけに目について、平生より数センチ高いヒールの靴は自分では無い他の人間の為。最後の最後まで所謂”良い女”であろうとする彼女の信念みたいなものの本質を、拙僧が理解することは終ぞないだろう。それは性別の違いもきっとあって、けれど自分は他の甲斐性無しで矮小な男共よりはずっと彼女のことを分かっているつもりだった。
夜の中でワントーン暗く見える髪が冬の名残の風に包まれて、思い出したように毛先が揺れる。きちんと固めた前髪は微動だにせず、獣のような瞳も揺らぐことは無い。自動販売機で買った二人分のペットボトルを握り締めて隣に腰掛けると、ゆったりと緩慢な動作で彼女がこちらを見た。何を口にしても落ちない唇の色は椿の朱紅よりも深く、まるで人間を生きたまま食べたように生々しく真っ赤だ。拙僧の髪色に負けず劣らずの鮮烈な赤。
本当に今日、彼女は恋人と別れてきたのだろうか。そいつを食べて帰ってきただけなのかもしれない。食べた、と言われても驚かない程に彼女はそいつといると幸せそうだったのを知っていて、尚且つ拙僧には人を食べたかもしれないくらいで彼女を嫌うような心算はなかった。
意外とこういう普通の人間が、口裂け女みたいに尾ひれがついて都市伝説になるのかもしれない。ペットボトルのキャップを開けようと何度も手に力を入れて、五回目の試みが失敗に終わるに至って漸く諦めて力を抜いたその瞬間を狙い、ペットボトルをひょいと奪って代わりに開けてやる。マスカラでばちばちに上がった睫毛で瞬きをして、「ありがとう」と象った赤い唇は、色が放つ力強い印象と裏腹に酷く微かに弱々しく動いていた。
「空却、戻らなくていいの。明日も早いんでしょう」
「あ?そんなんどうでもいーわ」
「良くないでしょ。また灼空さんに怒られて簀巻きにされても知らないよ」
「帰って欲しいんならそう言えや。”意志が在るところに道は拓けり”、ってなァ。ちゃんと言わねーと分かんねぇぞ」
「……どうなんだろう、わかんない。空却がいると、駄目になるから。でも、それは空却のせいじゃないよ」
半分は本当で半分は建前であろうその言葉を聞いて、僅かに目を伏せた彼女は表情に似つかわしくない生真面目な声を出した。脹脛が剥き出しの足元は生ぬるく、頬を撫でる夜風は心地の良い冷たさで、数週間前まで感じられていたキンと張り詰めたあの空気は微塵も感じることが出来ない。気の抜けた昼間の名残のような空気の中で、茶を飲みながら足を揺らす、取り残された大きな子供が。空却のせい、と言うはずもなく、拙僧がいる事そのものが、はっきりとは言わないだけでどちらでもいい程度の事なのは察している。こういう些細な一言に、身体の内側に貼り付くような思慕が膨張するから痛ましい。奥歯を噛んで、お前が好きだ、と告白によく似た呪詛の言葉を体内で唱える。彼女がどうにかペットボトルのキャップを開けようと試行錯誤するのと同様に、何度も何度も腹の底で試みた告白は、けれど終ぞ音として口から出る気配がない。
19歳。大して成長しなかった図体に相反して脳内で渦巻く狡賢さだけが助長され、けれど結局はいつまで経っても糞餓鬼のままだ。臆病で、可哀想で、情けない。固く握る拳で自らを叱責したつもりになるけれど、後になって掌に残った爪痕を目の当たりにして落胆することを知っている。
彼女の全てが欲しかったわけじゃない。自分の物にしたかったわけじゃない。そんな醜い独占欲にも酷似した渇望を、初めから持っていたわけじゃない。けれど、拙僧は駄目になって欲しかった。自分を必要としてくれるくらいに弱くなって、駄目になって、「空却のせいで駄目になってしまった」と、他ならない彼女自身に言葉にして欲しいのだ。
拙僧が望む正答へ導く手筈も戦略も無く、剥き出しになった感情を押さえつけて、ただ生ぬるい空気を肺に吸い込む。何の音もしないくせに、何かを包み込むようなこの小さな場所で、彼女はたった一人ぼっちで座っている。緑茶の味もきっと分からなくなるような恋愛をして、ただ足を揺らして、そうしてベンチに座っている。ここで軽率に触れてしまえば、必死に保たれている彼女という形がすぐに崩れてしまうだろう。今の形をどうにか維持できているのは、場所と、空気と、彼女の全てを睨み付ける最後の強い意志だけだ。陶磁器を床に叩き落とすだとか、ジェンガやドミノを崩す少し前に感じる虫の這うような感覚が、己の背中を、身体をずるずると這い回っている。
表面張力でかろうじて均衡を保っている、あと一滴でも落とされればたちまち溢れて零れてしまうコップの水の事を考えながら、拙僧もペットボトルを呷って緑茶を飲んだ。ちゃんと、味がした、飲み慣れたぼんやりと苦い味。
「」
拙僧の事を物言わぬ人形とでも思っていたのか、声を掛けられたのが信じられないとでもいう顔でこちらを見るの手首を無遠慮に掴んだ。折れた、と一瞬錯覚する程に骨ばった手首を、手折らないようにそっと、けれど確実に掴み直した。
夜を、世界の全てを睨んでいたくせに、同じように拙僧の事を睨んではくれない。水の膜を作って、今にも決壊しそうなそれ。瞬きをしてしまわないようにじっと目を見開いたまま、彼女は身動ぎひとつしなかった。
殴るでも、怒鳴るでも、いっその事、嫌ってくれても何でも構わないから、拙僧を彼女の世界に入れて欲しかった。まだ、間に合うだろうか。
安っぽい緑茶の苦みで舌がごわついて、言葉が上手く出てこない。ゆっくりと涙を落とさないように瞬きをしたが拙僧の名前を呼ぶ、起き抜けの子供のような声がする。そこでどうしてか拙僧はやろうとしていたことを全て出来なくなってしまって、ついには掴んでいた手の力も抜けて、彼女が困ったように笑うのが分かる程に恐らくは情けない顔をしてしまった。
全ては彼女が選ぶことだ、世界も、隣も、睨む相手も、何もかも。
「……拙僧、この茶ァあんま好きじゃねぇ、苦ぇくせに薄いし、旨味もねぇ」
「……うん?」
「でもいっつもお前がこればっか飲んでたもんだで、買う癖ついて」
「……うん」
「お前が、が拙僧の事そういう風に見てねぇのは知ってる。けど、拙僧は、」
続きを言おうとして声が詰まる。
足りないピースがあった、そのピースを空いた隙間に押し込んでから、最後に一番言いたいこと、だ。
力の抜けた掌の中に収まった手首ごと、動かないまま律儀に彼女は拙僧の言葉を待っている。怒った顔も、落ち込んだ顔も、幸せそうな顔も、楽しそうな顔も見たことがある。ただ、泣いた顔だけは、未だ知らない。
「だらこすいことしてるって思うわ、けど、こすくても、誰に何言われてもええ」
「……うん」
「だで、そいつのこと好きでもええから、とりあえず騙されたと思って拙僧と付き合えや」
これでは身体の内側にべったりと貼り付いている夥しい程の思慕の一割も伝わらない、と頭の隅で自らの不出来を罵りながら、それでも二度は言えなかった。けれど、二度も言う必要はなかった。
掴んでいた筈の手首がするりと抜けて、空気が大きく揺らいだ。何も言わないは不意に視線を手元に移すと、緑茶をひどく美味しそうに、渇いた植物が水を吸う様にするすると身体の中に収めていく。それから、ゆっくりと息を吐いてもう一度こちらを向くと「わたしのこと騙すの?」と言った。睨むでも、泣くでもない、ただの彼女の瞳と声で。
「たーけ、言葉のアヤだっつーの」
「じゃあ、付き合っても騙さないの」
「騙さねぇよ」
「チョロい女だなって思って冷めたりする?」
「わざわざこのタイミング狙ってんの拙僧だで、なんで冷めんだよ」
彼女はペットボトルをぐいと呷って中身をとうとう全て飲み干すとベンチから立ち上がって、身を翻すと拙僧の目前に立った。春の予兆が足元でぬるい風と温度になって渦巻いている。拙僧の目をじいと見詰めたまま、彼女の表情がじわりと変化していく。今までに一度たりとて見たことのない、けれど、どうしようもなく知りたいと思っていた顔に。
まるで桜が散るようにはらはらと彼女の頬に涙が伝って、それをぐいぐいと乱暴にコートの袖で拭いながら、口を開いて、息を吐いて、唇を引き結んで、不格好に必死に深呼吸をしている。立ち上がって抱きしめていいものかさえ分からないまま、拙僧はとりあえずまごつきながらも立ち上がった。
「……空却の事、こんなに振り回してるのわたしだけなんだろうなって、自惚れた」
「自惚れじゃねえよ」
「だ、駄目にしないでって言ったのに、わたしのこと駄目にして、むかつくし、でもっ、空却の泣きそうな顔がわたしのせいだと思ったら嫌、で、それってめちゃくちゃ偽善で、」
一度堰を切ったように溢れ出た言葉は止まらない。拙僧の好きな、なんだかやたらと小難しく屁理屈のような言葉を捏ね繰り回す平生通りの彼女が戻ってきた事に堪らず笑って、ぐっと距離を詰めて顔を近づける。潤む瞳に濡れた睫毛、初めて見る泣き顔は特別綺麗でも美しい訳でもなく、ただのが泣いた顔だった。すっぴんを見た時、ぼさぼさの寝起き姿で会った時と感情は同じだ。またひとつ知れた、ということ。
彼女が拙僧と付き合う理由を偽善と呼ぶのならば、拙僧が彼女と付き合いたいという理由は彼女のそれよりもよっぽど利己的で独善的で自己中心的なものだ。ただ自分が彼女といたい、彼女の見せるもの全ては自分が知っていたくて、同じ景色を見て違う感想を言って、けれどその違いを感じてみたりだとか、そういうことをしたいのだ。感情のタイミングや物事の見解が一緒でなくとも構わない。ただ、彼女の視界に収まる世界の中にきちんと拙僧がいて、鉄の絆とまでは行かずとも、互いの心に楔を打って、鎖のようなものできちんと繋がってさえいれば。そうすれば、上がる時も落ちる時も、絶対に離れることはない。
まだ取り留めの無い言葉をうだうだと喋っているを見ていると、ひとつドミノが倒れたら後はもう全て倒れるのみだ、と分かった。すん、と鼻を啜って言葉を止めたの目の前に立って、ほんの僅かに膝を曲げ、 拙僧の顔が真正面に来るようにする。ゆっくりと二度瞬きをした彼女に目を合わせて「テメェの人生はテメェが決めろ。……お前はどうしたいんだよ」と問いかける拙僧はまるで宗教の勧誘でもしているかのようだ。否、御仏に仕える身としては強ち間違ってはいないのだろうけれども。
「……ずるい、ね」
拙僧に言ったのか、自分に言ったのか、依然呼吸を整えるように細やかな息を吐きながら、観念したように密やかな笑みを零したが呟いた。拙僧はあーはいはい、となおざりに返しながら彼女の手首を掴んで引っ張り、すっぽりと腕の中に収める。
想像していたよりもずっと軽くて小さくて頼りなくて、けれど針金みたいに細くて折れそうという形容詞はフィクション特有の表現であって実際の身体には当てはまらないというのは新しい発見だった。袈裟に涙が付かないようにと必死に首を動かしているが動けなくなるようにきつく、きつく腕に力を込めて、拙僧は彼女に見えないように、ゆっくりと新しい世界の始まりを噛みしめる。