水に流して



 夜の深まる前、まだ営業中のクラブをこっそりと抜け出したのだ。出かける際に自室へ籠りきりの左馬刻へ一声かけると、深夜には雨が降るらしいから傘を持っていけと言われた。雨が降ってくれるのならどんなに幸運だろう。どれだけ有害物質の混じった都会の雨だったとしても、には頭を擦りつけて感謝したいほどの恵みの雨である。
 の仕事について、始末屋を名乗るにはあまりに甘すぎる、と当人は思っている。今夜のお相手は大企業の社長を夫に持つマダム。高級ホテルの一室で待ち合わせをした。少々きつい香水が難点ではあったけれど、年齢に反して若々しく美しくいらっしゃる。けれど格別に扱う必要はない。他のレディたちと同じようにお相手をして、彼女が寝入ったところで足早に部屋を出た。
 ホテルを出ると左馬刻が言っていたとおりひどく雨が降っていた。シャワーを浴びず逃げるようにして出てきたものだから、一張羅のスーツにはマダムの癖のある香水のにおいが残っている。髪にも、肌にも。ザアザアと叩きつける雨の中、まるで罪人のようには歩いた。どうにかして洗い流してほしかった。街角の時計は三時を回っている。静まり返った街を抜けて、すっかりと馴染んでしまった猥雑な路地へ入る。下品でけばけばしいネオンは、静かに輝く高層ビルのあかりよりもよほどの心を軽くさせた。



 真っ黒なダウンジャケットを羽織ってビニール傘を差して、ネオンの紫色をその人懐こそうな顔に落としこんで、男はほがらかに「おかえり」と笑った。簓だった。は自分に纏わりついたにおいについて思い出す。そうしてが一歩引くより先に、簓は二歩三歩と彼に歩み寄り傘を彼に傾けて、やさしくキスをした。

「あ、あのマダムか」
「うん」

 簓はが関係を持つ女性についてよく知っている。それは酔い潰れたが彼に向かって彼女たちの愚痴をこぼすからで、けれど簓がの役割について言及することは決してない。(ちなみに酔いの醒めたは毎度必死に弁解をする。自分はこういった役目を負ってはいるけれど、簓を一番に愛していると。)彼は、簓は、がひとりで雨に濡れて歩くたとえばこんな夜に、いつもの笑顔でもってを迎える。必ず「おかえり」と笑ってキスをする。いつからはじまったかわからない、ふたりの間のささやかな習慣だった。

「傘は?」
「持って出てない」
「左馬刻、持ってけゆうとったやろ。この仕事ん時、いっつも傘持たんよなあ」
「お前こうやって迎え来てくれるから。俺くさいまま簓に会うの、いやだから」

 そう言ってしとどに濡れた髪の水気を振り払うようにかぶりを振ると簓はからから笑った。

「気にしいひん」
「ちがう、ちがくて。俺は誠心誠意、お前のことすきだって言いたい。だけど言うのに他の人のにおいつけて、そんなんバカみたいだろ」

 まっすぐに思ってくれている彼に対して恩を仇で返すような真似だけはしたくない、とは思い続けてきたけれど、簓はの負い目を仇とは思っていないらしかった。他人の感情をうまく転がしてほしいものだけ奪っていくのだから物理的な強盗よりも性質が悪い。酔いに任せてそうぼやいた時、簓は声をあげて笑った。「人殺しよりも何倍かマシやろ」まるで泣きだしそうな声色でもって。しまった、と思った。自分はどんなに残酷だったろうか。彼の背負うものは感情などと不確かなものではなく、なによりも重く形をもつ人の命であった。

「そんなんお互い様やん」

 当夜も簓はそう言って眉を下げる。彼は泣かない。傘の淵から幾千と雨粒が落ちた。人を殺めて、欺いて、ずいぶんと多くの死体を踏み台にしてなんとか立っている。それぞれに負い目を感じているはずだった。ひとり殺めた夜、憔悴しきってしまうようなおそろしく優しい彼は、いっそう。
 しかし彼はあの赤ん坊を育てたあの愛おしい日々を走り抜けて、間違いなく変わった。猿面を捨てた彼は寒気がするほどにうつくしい。棍棒を振りまわす簓の横顔が好きだった。水をうったように静かな瞳は、やはり驚くほど澄んでいた。を映す、あるいは空を、暗闇を、なにもかも見事に映す、磨き上げられた鏡面の瞳。引き結んだ唇にきっと確固たる決意を秘めて、そこに赤いルージュがなくとも、彼のそれは痛いほど鮮烈であった。

「……そうだな」
、別のこと考えてたろ」
「ばれた?」
「簓さんの目は誤魔化せへんよお」

 笑う、笑う。よく笑う男だ。悲しくても苦しくても、簓はよく笑う。代わりにがうじうじと泣いて、それでもって上手にプラマイゼロならいい。抱き合って、キスをして、有り体に言ってしまえば繋がったその部分からどろどろと融けだして、固まって、しまいにはひとつになってしまえばいい。ぐっしょりと濡れたの髪を簓が撫でていった。傘を持つ手に触れれば氷のようになっていて、ああ、いつもこうして、こうして彼は自分を目一杯に愛してくれている、と思った。
 撫でつけられた前髪がほつれて、だらしなく額に落ちた一筋から雨が降る。簓が泣いているのかと不安げに問うから、そんなことはないと言ってゆるく抱きしめた。小さな傘の中で上背のある男二人のため、隔絶した世界は唯一ここだけに佇む。肩口に額を寄せる。簓は鼻にかかった声で笑った。愛していると呟くと、ただ、ひとことだけ。うん、と言った。