はっと気づいて、はそれから口数がめっきり減ってしまった。
一郎はひどく優しい男だ。彼はこのクラブきってのパワーを秘めていたけれども、それを己の感情に任せて振るうことは決してしない。は一郎を尊敬していたし、似たような性質のものとして寄り添いたいとさえ思っていた。他人を観察するのは、の習慣のようなものだ。こうして寂雷に始末屋へと誘い込まれる前、まだ一般企業に就職していた頃、否そのずっと前だ、まだ少年であった時分から、は他人を見ている。だから平生どんなときでも溌剌としている一郎が、すこしだけ、ほんのすこしだけ笑顔を陰らせていることに気づくのは簡単だった。
開店前のクラブ、建物の中は静まり返っている。「」床に敷かれたラグに転がってパズルゲームに勤しんでいたところ、静寂の糸を切るように名前を呼ばれた。なあに、と間延びした返事をして視線を上げると、左馬刻が無表情にを見下ろしていた。「一郎が」ああうん、そうだよなあ。やっぱ気づくよなあ。左馬刻、鋭いもん。という言葉はきっちり心の奥にしまいこんで、はただ「うん」とだけを返した。の視線が再びゲーム機へ落ちたことに左馬刻はなにも言わなかった。「なんか知ってるか、」うーん、知ってるけど、知ってるけどなあ。
「言えねえことなら、別にいい」
左馬刻の「いい」が本当に「よい」であったためしなどないのだった。ここでが一郎になにがあったのかを白状しなくとも、左馬刻は易々とその原因を突き止めることだろう。はゲームのスイッチを切った。
「一郎の一等かわいがってた猫、こないだ死んでてなあ」
が一郎の陰りに気づいたのは五日前で、クラブの外で彼に出くわしたのは一昨日のこと。七人の中で朝が早いのは(といっても職業柄全員が陽の昇りきってからの起床であるけれど)一郎と理鶯だ。はクラブを閉めた後、寂雷からの依頼を受けて薬品の調合やハッキングを行いそのまま朝を迎えることも珍しくないから、彼らがわざわざ早起きをしてなにをしているのか知っているつもりだった。理鶯は誰もいない簡素な厨房で一心にパスタを打ったりトマトを切ったりしているし、一郎は起き出してきて冷蔵庫からミルクを引っぱりだしたかと思うと、眠ったままの通りへ繰り出していく。
一昨日の朝は珍しく厨房に理鶯の姿が見えなかった。彼がいたのなら朝食をつまませてもらおうと思っていたのに、確認できた人影はひとつもない。はなにか作ろうという気にもなれず、しかたなく外へ買いに出ることにしたのだ。
クラブを出ると、にぎやかな朝日が網膜を痛烈に刺す。人通りのない街、あかるいうちは死んだようだった。ひとつ通りを抜ければおそらく平日の昼間に似合った人の忙しない足音や喧しいエンジン音が行き交っているのだろうけれども、今となってはそのような喧騒には縁がない。何年か前までは、も大通りを忙しなく歩く人間のひとりだった。ひとたび現代社会においての家畜じみた生活を離れてみると、日本人とは驚くほど任務に忠実だと思う。なにを与えられてもこなさなくては生きていけない。は薬品のにおいが染みついた指で鼻を擦ったけれども、しかしやはり、彼も日本人であった。
男たちがよく利用するコンビニエンスストアは、クラブを出て左へ数百メートル行ったところにある。一キロ先からはゆるく坂になっていて、そこを上り切ると例の大通りへ抜ける。はこの坂を好んで上ろうとは思わない。この少し低くなった、海抜ゼロメートルの土地はひどく心地よいのだ。近くなった慌ただしい俗世を横目にコンビニエンスストアの自動ドアをくぐった。
食に対して特別にこだわることなどない。どうせなら美味いほうがいいとは思ったけれど、食べられるのならばなんでもいい。は菓子パンを鷲掴み、ひとつふたつとカゴのなかに放り込む。
「これも」
急にずしりと重くなったカゴを見ると、ひとつふたつ、どころではない量の猫缶が鎮座していた。はすぐに「一郎」と咎めるように言う。隣に立った男を見上げると、彼はいつもと同じランニングシャツとチノパンに、スニーカーを履いていた。こうして明るいところで見る一郎はまるで普通の青年だ。チノパンの角ばったふくらみは、クラブの冷蔵庫からくすねたパック牛乳を詰めこんでいるせいだろう。と目が合うと、おはよ、といって人懐こい笑みを浮かべた。
「いいけど、こんなとこで買ったらまた左馬刻に怒られるんじゃない?」
「そうか?」
「無駄遣いすんなって、がーって犬歯剥き出してひっぱたかれるよ」
そうか。一郎は繰り返して笑う。猫を連れ込むな営業中のフロアでの喧嘩はきちんと仲裁しろ資料整理をしている人間の横でトレーニングをするな、あれやこれやと一日中苦情を受け付けている一郎には左馬刻の嗜める声さえどこ吹く風。そういう一郎をは見習おうとは思わないけれど、なんとなく羨ましいとは思う。彼の強さというのは、どうも理鶯や左馬刻、自身とは違うベクトルのものらしい。がそれきりなにも言わずに菓子パンふたつと山ほどの猫缶を会計し終え、一郎を振り返った時も、彼は変わらず笑ったままであった。
「一郎」
「なに?」
「それは、こっちのせりふなんだけど」
「はは」
一郎はの手からレジ袋をとりあげると、「ちょっとつきあってくれるか?」なんておどけたように首を傾いでみせた。なんでも自分の中でシュレッダーにかけてしまう彼の珍しすぎるお誘いだ。はひとつ、うん、と返事をしてコンビニエンスストアを出た。
上背のある彼だけれど、小柄なや乱数と並んで歩くとき、できるだけ歩幅を合わせるだけの気遣いができる男だ。けれどついてきてくれと言ったきり一郎はを振り返らない。いつもより幾分か速足で、があまり好かない坂を上っていく。ランニング姿の彼はスーツを身にまとったサラリーマンたちの流れに逆らって大通りを進み、ふいに左折した。寂れた月極駐車場。にも馴染みのある駐車場だ、隅にあるゴミ捨て場は火曜木曜土曜が可燃ごみの回収日で、だからゴミ捨て当番になれば自然と一週間に三日通うことになる。この日は火曜日だった。山ほどのゴミ袋はまだ回収されていない。一郎はそのゴミ袋と塀のわずかな隙間に屈んで、を手招く。
「なにがあんの?」
「なんもねえよ」
猫缶をひとつ、コンクリートの上に置いた。左ポケットから厨房でくすねただろうココットを取り出して、右ポケットから出したパックの牛乳を注ぐ。ひどく穏やかな表情で手を合わせるものだから、もつられて手を合わせた。こんなふうになにかに祈るのは何年ぶりだかわからなくて、なんとなく懐かしくて涙が滲んだ。「ここにいつも猫、いたんだんけど、こないだ、死んでてさあ」なんて一郎が言うから、涙声でそう、と返す。
「なに泣いてんの」
「悲しかったら、泣くだろ?」
「涙、出ない」
「うん」
「悲しいよ」
「うん」
「悲しいけど、涙は、出ないんだよ、」
一郎は不思議なほど淡々としていた。はただうん、うん、と彼の言葉をかみしめていた。それから一郎はその猫がいかに美しく、愛らしく、利口であったかをぽつぽつと語って、最後にありがとうな、と笑った。はまた涙を零した。
「泣き虫だなあ」
一郎はレジ袋から菓子パンをひとつ、に差し出した。それ、俺が買ったやつじゃん、そう目を眇めると一郎はまた笑う。左馬刻の説教をのらりくらりとかわす時の笑い方。やさしく頭を撫でられてすこし腹を立てる。一郎の手は肉厚で肉刺の多いごつごつとしたものだ。さわんな、と睨むといっそう笑みを深くする。
かじりついたあんぱんはつぶあんだった。
「だから、一郎は喪中なんよ」
「なるほど」
左馬刻はさほど興味がないとでもいうように、インクの黒が染みついた指で鼻を擦った。本当に興味がないのならば訊かなければいいし、せめて手くらいは洗って、それからに尋ねてもいいはずだけれども。
は体を起こして左馬刻を見た。やさしい彼が一郎になにをしてやるのかが気になる。左馬刻はフロアを見回すと、理鶯の名前を呼んだ。奥のカウンターでグラスを拭いていた理鶯が返事をする。
「夕飯いつだ?」
「銃兎が買い出しに行っているから、帰ってきたらすぐだぞ」
「一郎の好物出してやれ」
理鶯はひとつ頷いて、それからなにやら秘め事を話すようないたずらな笑みでもって「一郎には秘密だな」と言った。左馬刻はいつものように唇の端を軽くつりあげておうと頷く。
そのときはああ、と思った。どんなにがすべて受け入れて頷いても、それが一郎の心を飲み込むことはない。涙を零した瞬間、一郎にとってのはどうしようもなく弱く、愚かしく、幼い、守ってやらねばならないものになってしまう、そう思った。一郎は守られる術を知らないだろう。無理やりにでも彼を庇ってやるのはの拙い理解でなくて、いつでも静かで、けれどがむしゃらな左馬刻の気遣いだ。敵わない。が感情の機微を上手に拾って、左馬刻のもとへ届けて、左馬刻は届けられたそれをきれいな指先でほどいてゆく。からまったものをあっという間にほどききると、なんでもないふうにひっそりと笑っているのだ。
銃兎に連絡する、とどことなくうきうきとした声色で理鶯は言い、携帯電話をひっつかんで外へ出ていった。
「」
「なに」
「一郎の話、聞いてやれよ」
俺にはどうも、そういうの向いてねえから。左馬刻はまた鼻を擦った。
好物のにおいが漂い始めたら、あの男が陽気に帰ってくるはずだった。そしてひとつふたつみっつよっつ、数え切れないほどのつまらない冗談を言って、大きな口で料理を頬張って、おいしいおいしいと笑って、理鶯や左馬刻を褒めたたえる。すると理鶯がすこしはにかんで左馬刻を見る。それに気づいた銃兎はやさしく目を細めるけれど、理鶯はそれには気づかない。乱数が黙々と食べ進める時は本当においしいと思ったときだ、寂雷の残したものまですべて平らげて、時々おいと銃兎に咎められる。まだ食事中の者から横取りしてはいけない。寂雷のものでも足りないと今度はの食卓にまで侵食する。大変くだらない攻防戦の始まりだ。
「左馬刻」
「なに」
「鼻にインクついてる」
素直に慰めることと、それから、おどけることはちょっぴり苦手らしい。僅かに顔を赤くした左馬刻が洗面所へ走るのを見届けて、はひそかに笑う。