午前二時を過ぎた頃、クラブの喧騒を抜け出した彼が帰ってくる。
客のいないがらんどうの扉を開いて、コツコツと小さな靴音を立てた。はようやく寝静まった大きな弟たちを起こすまいと極力静かに、ゆるりとカウンターのスツールに腰掛けた。わずかな灯りのもと、猫のように煌めく目を認める。
「おつかれさん」
「うん、ありがとう」
左馬刻はそれきりなにも言わずに、七つきちんと並んだカップのひとつを取りあげた。が使っているカップだ。ドリップしたばかりのコーヒーを並々と注いで、左馬刻は黒いカップをの前に滑らせる。
がひとりで"仕事"に出かけた夜、左馬刻は時折こうしての帰りを待つ。それは習慣とも呼べない頻度で、例えば五回に一回。小さな頃からどこか野良猫じみたところのある彼らしい行動だと思った。
は左馬刻の淹れるコーヒーが好きだった。常日頃が好んでコーヒーを嗜むというわけでもないのだけれども、左馬刻はコーヒーを淹れるのが上手い。カウンターを任せられている一郎や理鶯の淹れるコーヒーもまたは美味いと思うけれど、左馬刻のものはまたなにか違うのだ。彼の淹れ方がの好みに合うだとか、結局はそういう話かもしれない。
美味い、と左馬刻にこぼしたのはたったの一度きり。その一度きりをご丁寧にも覚えていて、コーヒーを差し出す。そんな左馬刻に対してが「いつも」ありがとうとか、「わざわざ」すまんなとか、そう声をかけるのは酷く野暮なことだ。左馬刻が淹れるコーヒーには、から与えられるものを待つなにかは一切ない。ただの美味いと言ったコーヒーを出すために左馬刻はひとり豆を挽くし、は美味いコーヒーを飲むために左馬刻と向き合う。
「そいじゃあ、後片付けは頼むわ」
「うん」
「おやすみ」
「おやすみ」
そうしてひとり残されたカウンターで、はゆっくりとカップを傾けた。左馬刻の淹れたコーヒーはすこしだけ、火薬のにおいがする。