夜というのは総じて、どこかしら嫌なにおいがする。その夜もそうだった。血と火薬のにおいがしたのだ。
怒号と殺意がさながら銃弾のように暴れていた広い部屋に、残った息使いはふたつきり。左馬刻は的確に男たちを"始末"していった。一応援護のためにとから手渡されたリボルバーの撃鉄に、乱数が指をかける間もないほどに。
左馬刻はそののち慌ただしく上階へ駆けあがっていった。上では一郎や空却がなかなかに苦戦を強いられていると銃兎からの無線が入っていたのだ、近寄りがたい雰囲気や機嫌の悪そうな表情に反してその実ひどく仲間思い。愛すべき彼の性格を、この時乱数は格別に喜ばしく思った。「僕気づいたことがあるんだあ」そう切り出したかったから。
は血飛沫を器用に避けて床に胡坐をかき、金庫に耳を当ててダイヤルを回していた。乱数が無遠慮に声をかけると、重たげな瞼をすこし開いて「うるさい」と唸る。わざと彼の目線に合わせるように膝をついた。どうしてこのような現場に情報収集を主にする自分が駆り出されたのかわからない、しかし、わからないなりにこの状況を利用しようというわけ。
「僕さあ、のこと好きなんだよねえ」
「うるさい」
「一世一代の告白なのに」
「うるさい」
チリリとダイヤルを回すと、眉を跳ね上げたの手が止まった。手袋をした彼の手が金庫の表面を滑る。魔法のようにするりと金庫が開いた。
「お前は寂雷さんのこと好きって、」
「きれいだなあ」
「人の話聞いてくれるか?」
「もさっき聞いてくれなかったでしょ」
中には今回の目的だったらしい茶封筒がひとつ。持て、とでもいうようには乱数へそれを無言で突き出した。そのシチュエーションになんだかラブレターでも貰ったような気分になるのだから、やはり修羅場には向かない脳の仕組みなのだろう。
は茶封筒を握る手をしばらく離さないでいた。仕事人の目だ。依頼者の心情を探る時のような目でもって乱数を見ていた。
「おまえはおかしい」
何千何万と言われてきた言葉。毎回のように乱数の脇腹をちくちくと刺していく"おかしい"は、今回限りは随分と鋭い刃で深く深く彼の心臓を突き刺した。
乱数は唐突に寂雷のことを思い出す。おかしい。乱数がおかしいのなら、寂雷ももおかしいはずだった。だっては寂雷を愛しているし、寂雷もまたを愛していた。は女でないし、まして寂雷が女であるはずはない。同性愛がおかしいという理由で乱数が非難されているのならば、必然的に彼らも非難の対象となるような、いわゆる世間一般的にうつくしくない関係が、ふたりを取り囲んでいるはずだった。
茶封筒、の手袋の向こうの、死人のように冷たい白雪の手。乱数が欲し続けている寂雷をたやすく手に入れる魔法の手。寂雷が愛してやまない手。乱数にとってはひどく憎らしくてたまらないそれ、しかしすこしいとおしく、たまらなく触れてみたい。その欲求が一時の迷いであれば、それほど喜ばしい幸運もなかったけれど。
「さわってもいい?」
「変態みたいなこというな」
けれど、幸運などその夜になにひとつなかった。犯罪者といえど人が多く死に、傷つき、仲間も少なからず痛手を負ったであろうこの夜、この血生臭い硝煙漂う死体の海の中、乱数の移り気は不運にもに着地したのだった。
は茶封筒から手を離さなかったし、乱数も同じようにしていた。その紙束ひとつを介して互いが繋がっているような、妙な瞬間だった。銃兎が落としたであろうブレーカーのせいですっかり暗闇が落ちている空間に、薄曇りの空の向こうから降る月光だけ。平生から白い彼の顔はいっそう白く、いやむしろ青白く、まるで。
それから起こした行動について、乱数はよく覚えている。ごく自然に、それが当然の筋書きであったかのように自然に、どちらから誘うわけでもなくすんなりとキスをした。茶封筒がさながら銅線のようにはたらいて、の持つ静電気を乱数へ伝えた。体の芯からジリリと痺れ、思わず手を離す。は相変わらず白い顔をして、品定めでもするかのように乱数を見つめた。そしてひとつふたつと瞬きをした後、閃光のように赤い唇を歪めた。「おまえはおかしい」呪詛じみた言葉、低く呟いたそれを乱数は項垂れて拾う。「乱数」噛みつくようなくちづけ、たとえばそうだ、寂雷が、寂雷が夜深い情事のあとに、に返すような。
乱数は立ち上がったを見上げることしかできなかった。彼の唇はもう歪んではいない。まるでまぼろしのような数分間のはなし。すんと鼻を啜ると、コーヒーのにおいが鼻を掠めた。見送る寂雷が、のために淹れたものであったろう。