融解する夜



 ひたひたと滴ばかりを零すの右頬に、銃兎は小さな切り傷を認めた。
 耳を痛めるくらいに騒々しい怒声と銃声と、そういった物騒なものばかり詰め込んでいて数分前まで随分と喧しかったビルを背景に、は黙りこくっている。ターゲットは十六人、カタリとも物音がせず明かりひとつついていない、死んだような建物。戦闘に慣れた人間はいないはずだから、とひとりに任せたオーダーは、もしかしたら間違っていたのかもしれない。銃兎はくすんだ青色のワーゲンバスを降りて、ビニール傘の中にを迎え入れた。

「おつかれさまです」
「全滅」
「ええ、ありがとうございます」

 は血のついた棍を開いたままのカーウインドウから車内に投げ込み、小さく頷いた。
 猿面を捨ててしまった彼は、夜がきて人を傷つけるたびに、とても悲しい顔をする。今夜も同じ顔をしていた。銃兎がありがとう、と言うのを聞いてどうにか笑うように目を細めるけれど、どうしたって拭い切れないひんやりとした寒色の感情は、依然としての顔面を支配している。

「慣れてしまったかなあ」

 彼は笑った。軽く首を傾ぐ。くせのある細い髪が揺れ、ぐっしょりと濡れそぼったスーツの肩には水滴がまた染みた。ほんとうに強くて、そのくせ心は底知れずやさしいから面倒だ。人の命の一切を任せてしまった銃兎は、の強かさもそれに比例するお人好しも、十分にわかっていたはずなのに。
 頭脳が明晰だのなんだのとそちこちで誉れ高いことだって、今宵の銃兎にはただのひとつだって思い当たる節がないのだ。長い間傍にいて熟知しているはずの男の性質さえも未だに読み違えて履き違えて、こうして冷たいふうに笑わせてしまう。どれほど愚かしいことか。は誰より強くて誰より優しくて、そして銃兎がよく知るように、誰より笑うのに誰より弱い。猿面は彼のやわらかいところを守る鎧だった、そんな事実だってあれを着用することを勧めた銃兎のよく知るところだった。

「ね、銃兎さん」
「慣れてなんかいませんよ」

 銃兎がの濡れたくせ毛を撫でつけるとはその手を掴んで「濡れるからやめてください」なんて言って、

「どうしてそんなこと言えるんです?」

 まっすぐな目でそう尋ねた。銃兎はのこの目がすこし苦手だった。夜の深いところで愛しているという目も同じような色をしていて、だから彼のこの目を見ると色々なことを思い出す。それなのに、わずかにでも逸らしてしまえば今まで築いてきた信頼や、彼を愛おしく思っているという証明すら、がらがらと音を立てて崩れていってしまう気がする。苦手なものから目を逸らせず、銃兎は気休めにひとつだけ瞬きをした。

「悲しいって顔に書いてあるので」
「ほんとに?」
「ほんとうに」

 は「かなわんなあ」と笑う。薄ら寒いものはいくらか剥がれ落ちたように見えた。頬の傷にそっと唇を落とせばくすぐったそうに肩を揺らす。銃兎はこっそりと、鉄錆に似た生臭いものを飲み込んだ。謝罪を告げる。はなんでもないと笑っている。なんでもないことなど、あるはずがないのに。彼の手は温かく、雨の夜、いつも以上に冷えた銃兎の掌は少々溶け出したようだった。