沸き立つ悔しさと苛立ちをぐるぐるに混ぜて、左馬刻は地面に赤い痰を吐いた。
尻をついた雨上がりのコンクリートはひやりと冷たい。着色料がふんだんに含まれたクリームソーダのような、毒々しい色の髪を靡かせた簓は左馬刻よりも身長も低く華奢であるくせに、左馬刻の何万倍も屈強なものであるように見えた。いつもいつもおちゃらけて場の空気を乱すのだ、そのくせ簓には圧倒的な力がある。舐められないために力は振りかざしていかなければならないものだと左馬刻は思っていたから、ゆるゆると笑って、まるで器用にその凶器と狂気を心の内に隠す簓が気に入らなくて気に入らなくて仕方がない。痛む脇腹を押えて立ち上がる時、差し出された手を振り払うのは何度目か。数えるのは百を超してから諦めてしまった。きっと、何百何千何万と負けただろう。
「なんで」
「なんでもクソもあるかい」
優しげな顔立ちでいて、妙に薄汚い路地裏が似合うのは不思議だ。一瞬だけ視線のぶつかった細い目は珍しくぎらぎらと光っていて、簓を怒らせたのだと左馬刻が気づくのにはコンマ一秒。左馬刻は元より頭の回転の速い男だったから、どうして平生穏やかな彼が腹を立てたのかをきれいに理解した。だから「なんで」は左馬刻が喧嘩を売った相手に対して、偶然に、偶然に通りかかった簓が「なんで」手を出したのか、ではなくて、左馬刻自身が「なんで」簓に勝てないのか、の「なんで」であった。
「身の程知らんでそうやってなんにでもつっかかって、そんなことばっかしとるんか、死ぬで」
いっそここで死んでもいい、なんて口に出した日には本当にこの暗がりで息絶えてしまうかもしれない。左馬刻には生きている意味もなかったけれど、死ぬ意味も特になかった。けれども素直に謝罪するのは彼のプライドが許さなかったし、返す言葉も見つからない。簓は堅い靴音を連れなって歩いていく。だからなんだというのか。彼の背中を穴が開くような視線でもって睨みながら、左馬刻はポケットから取り出したくしゃくしゃの煙草に火をつけた。
「自傷癖みたいなもんやって、がぼやいとった」
身体の節々が痛い。左馬刻はよろよろとライターをポケットにしまうついでに、つい先日寝た腰骨のところに黒子がある女の手首を思い出した。いくつも走る細く赤い爛れた傷口は女が自らつけたものだろう。左馬刻はそんなものに露ほども興味はなかったから言及しなかったけれど、くゆる紫煙の中で彼に縋るような目をしていたのを覚えている。拳ひとつで喧嘩を仕掛ける自分と裸で見知らぬ男に抱かれる阿婆擦れのどこが似ていたのか、それがわからないほど愚かであるつもりもなかった。
「生きてるっていう証拠が欲しいのよ」
わかる?なんて首を傾ぐ。わかるよ。優しさを貼り付けて微笑んでやった。俺もだ。そういうと女は嬉しそうに絡みついてきた。
特別生きていたいとは思わない。けれども、確かに繋ぎ留めておくための碇は欲しいと思った。
左馬刻にとってはそれが暴力であり、強さを求めることであり、他を傷つけた分だけ自分が傷つくことだった。自傷癖と呼ばれてしまうのも頷ける気がする。痛みを伴ってこその生きている感触だ。肉親を責めるつもりはなかった。それでも、虐待を受けていたことが左馬刻自身の価値観に多大なる影響を与えたことは間違えようもない事実であった。公平なものなど存在しない。左馬刻は自分の生き方が歪んでいるとは微塵も思わなかったし、もとより始末屋などという物騒な肩書を背負ったところで既に正しい道とはおさらばしているのだ。いまさら、なにをどう正しく生きようとできるものか。
左馬刻はただ強くなりたかった。人一倍努力をしたはずなのに、夢を潰しに来たのは他の誰でもなく自分自身の無力さだった。責められる相手もいない、気づけば少し視界は狭まったようで、どうしようもなく燻る火種に応じるようにして、喧嘩を売られる回数が増えた。原因を逐一覚えているようなことはしないけれども、肩がぶつかった、と因縁をつけられることが特に多い気がする。勝つこともあれば、今日のようにぎりぎりまで追いつめられることも、一晩立ち上がれないほどに痛めつけられることもあった。
どこかしらの路地裏で倒れたら、寒さや疲労で眠気に襲われる。そうしたときは決まって、眩い朝の日差しと聞きなれたエンジン音で目が覚めるのだ。呆れ顔のが、重みのある瞼を一生懸命に開いて眠たそうな表情を隠しもせずに迎えに来る。はじめはなにやってんだよアホンダラ、と怒声のひとつもぶつけられたものだけれど、ここ数年のはなにも言わない。ただ左馬刻がどこで倒れていても、日が昇ってが目を覚まして、左馬刻がいないとわかれば必ず、彼は必ず左馬刻を迎えに来た。なにも言わずに彼が差し出す手はひどく冷たい。その冷たさは左馬刻の帰巣本能をちくちくと刺激する。小さなころ、左馬刻を撫でた掌と同じ冷たさだ。どこでどのようにの手に触れたとしても、左馬刻はいつでも、なんとしてでもの元へ帰らなければならない、と思った。
「はいつでもお前のこと迎えに来るわ」
ええなあ。
簓はそう言って少しだけ左馬刻を振り返った。彼はずいぶんと遠のいていて、しかもそこは暗がりであったから、左馬刻から簓の表情を読み取ることはできなかった。けれども簓はきっと笑っていただろう。たとえ眉を下げて、悲しげだったとしても、彼は笑っているはずだ。
彼がなぜ、どんなときでも極力穏やかであるのかを左馬刻は知らない。彼の過去については他の男たちと同様に幼い時分耳にしたのだろうけれども、そのころの左馬刻は簓というかつての少年のバックボーンなどに毛の先ほどの興味もなかった。ただ倒してやりたい喧嘩相手でしかなかった。それでは今はどうかと聞かれても、やはりそのままであるようにも感じる。
「左馬刻がそうやって座り込んでる間はなあ、左馬刻。俺、ぜったい左馬刻には負けんと思うわ」
「なんで」
「なんでもクソもあるかい」
それきり簓はなにも言わずに遠ざかっていった。彼の腰にぶら下がった奇抜な色のマスクは左馬刻を見ていたし、左馬刻もまた、暗がりでも発光しているようなそれをじっと見つめていた。長く細い路地を抜けて簓が大通りへ姿を現す頃、左馬刻はゆっくり瞼を降ろす。そうだ、きっと変われまい。諦めにも似た眠気だった。
彼が待つのはきっと差し込んでくるだろう朝日と、コンクリートにこだまするワーゲンバスのエンジン音だ。