エビフライロケットできみの街まで



 日本の人口はひたすらに減少しているとはいえ、今現在でも1億2670万人いるらしい。中でも、20歳から39歳の女性の人口に絞ればおよそ1400万人近くになるそうだ。
 俺はパワーポイントのスライドのごとく分かりやすく作られたグラフが表示されたテレビ画面をぼんやりと眺めながら、の鼻歌を聞いていた。音程は取れている分ちょっと自慢げで、些か肺活量にだけ問題がある勢いだけの鼻歌はたまに変に音がずれていて、合間に野菜を切る音やコンロの火をつける音、こまごまとした生活音が聞こえてくる。テレビの音に紛れそうなボリュームのそれを俺はきちんと聞き分けて、というか、特別大きく聞こえる彼女の鼻歌。急にじゅううっ、という油が熱されて跳ねる音と空腹感を強めるソースの香りがして、俺は無意識のうちに立ち上がりそうになる。

 ムードも色気もクソもない、あの炭火くさい焼肉屋での最悪な告白からおよそ一ヶ月が経っていた。
 告白を決めたのはお互いの誕生日が近いからだとかなんとかそういうわかりやすい契機があったわけではなく、ただなんとなく漠然と、ああ、こいつなら俺みたいな人間とでもこれから先もずっと付き合ってくれるんだろうな、という希望的観測に近い思いがあったからだ。駆け引きの仕方なんて知らない俺の気持ちは最初からだだ漏れだった。は少しも気付いていないようだったけれども、少なくとも一二三にはとっくの昔にバレていた。恥ずかしくても、ばかげていても、それでも良かった。が俺を好きだという事実を知りもせず、告白を決意した。まさかこんなにあっさり実るなんて思ってもいなかったのだった。

「焼きそば作ってもいい?ずっと食べたくて」

 休日返上で出勤させられそうになったところを無理やり押し通して休みをもぎ取ったと告げた俺に昨日、おずおずと訊ねた電話口の声をふと思い出す。だからこんなにも上機嫌なのだろうか、俺もさほど量を食べられるわけではないけども、比較的食の細い彼女が家でひとりで食べるには厳しい料理だろう、と了承したのは何時間前だっただろうか。
 夜も朝も昼も、がいるだけで部屋全体の色が少し淡く柔らかく見える。まるで合宿か夏祭りの屋台のような懐かしい思い出を再起させる匂いが立ち込める部屋で、麺が熱せられる音の合間に彼女の鼻歌はずっと続いていた。俺の知らない歌、俺が普段聴くことのないような明るい、いかにもが好きそうな歌だった。ちらりとキッチンに視線だけを向けると、エプロンをつけた彼女は俺の事なんてすっかり忘れているみたいにコンロの前に立っている。むらむらと、自己主張という子供じみた感情が浮かび上がってきて、手に持っていたリモコンをソファに放り投げた俺はキッチンへ足を向けた。

「合宿してるみたいな匂い」
「ね、髪の毛に匂いつくかも」
「そしたら風呂使えばいいだろ」
「あー……、うん」
「どうした?」
「や、でも実際、もうこれ食べたら帰る時間かーって、ちょっと、現実が」

 じゅわ、とソースの焦げる甘く香ばしい匂いを換気扇のファンが吸い込んでいく。俺は言語も呼吸もすべてを忘れて、火がかけっぱなしのフライパンをじっと見つめていた。じりじりとソースの色に染まったキャベツがそのまま黒くなってしまう前に反射的に火を止める。もうもうと上がる煙のような白い湯気が換気扇にばかみたいな速度で吸い込まれていって、けれど、は黙っている。先程まで聞こえていた鼻歌も、合間の呼吸も、油の跳ねる音も、もう聞こえない。合宿所みたいな匂いは明らかに俺の食欲を刺激するものなのだけれど、目の前にちんまりと立っているにしか俺の意識は向いていなかった。火を俺が消したことに気付いてようやく、そっと俺の名前を恐るおそるといった様子で呼ぶ、怒られる前の子供のように一気にくったりとした姿にたまらず俺の唇は上がり、目を細めてしまう。華奢な肩に触れるのも、指を絡めるのも、不安げな頬に指を添えるのも、今の俺は簡単にできる。昔はそれらの行為すべてに躊躇ったり、拒絶されることを勝手に想像して絶望した夜だってあったというのに、時間というのは恐ろしいものだ。簡単に触れられるようになったぶん、いつの間にか言葉になにか深い意味を求めるようになっていた俺は、手を伸ばす代わりに口を開く。

「……うまそう、腹減った」
「お皿、どれにすればいい?」
「そっちの棚の。俺盛るから持ってきて」
「うん」

 至極いつも通りの俺の雰囲気に明らかに安堵の表情を浮かべたは、今にもスキップをしそうな軽い足取りで食器棚から皿を取り出して戻ってくる。菜箸をかちかちと鳴らしながら少しだけ考えて大皿に盛りつけると、二人分の取り皿をテーブルに並べることで落ち着いた。だいたいの料理はできたてが一番美味しいと思っているけれど、これは特別そうだろう。もうすっかり手慣れた動きで食事の準備をする後姿と見慣れたエプロン、白いうなじ。

「さっき、何歌ってたんだ」
「え、聞こえてた?」
「聞こえてた」
「えー、秘密」
「隠すようなことじゃないだろ」
「いいじゃん、恥ずかしいんだもん」
「もっと恥ずかしいことなんていくらでもある」

 わざわざ今日の為に買ってきたジップロックつきの青のりの袋を開けながらが「そんなことない」と変な否定をする。随分と雑な否定の仕方で、青のりを容赦なく振りかける手つきは料理をする動きより幾分か乱暴だった。冷蔵庫からピッチャーを出すと二人分のグラスにお茶を注いで席に着く。ふたり向かい合って頂きますの挨拶を言いあって、それから取り箸で順番に取り皿に焼きそばを乗せる。彼女は自分で作ったにも関わらず、ひどく弾んだ真っ直ぐな声と上がりきった口角で「美味しそう」と微笑んだ。ちょっとかけすぎではと思う程にまんべんなく青のりのかかった焼きそばは、想像通りかりかりの豚肉や沢山の野菜と柔らかすぎない麺が絶妙に焦げかけたソースによく合っていて美味しかった。唇の端にソースをつけながら黙々と焼きそばを口に運んでいく彼女の処理スピードは気迫の割に俺よりもずっと遅い。先に一度取った分を空にした俺はグラスを呷って半分ほどお茶を飲み干すと、ちいさく満足感を滲ませた息を吐いた。
 地球上にいるおよそ1400万人の彼女くらいの性別と年齢の存在の中で、どうしてだけにこうなってしまうのだろう。未だに焼きそばを丁寧に食べている彼女を見ながら、俺は脳内でぐるぐると考える。答えが出ないことなど分かっているというのに、それでもぐるぐる考える。ほとんど空になった皿の最後に残っている小さく切ったキャベツの芯を小動物のように齧る彼女に向かって箱から一枚抜き取ったティッシュを差し出した。眉を下げたが受け取ったティッシュで口元を拭う。

「へたくそ」
「まだ食べるからいいもん」
「なんか、久々に手作りの焼きそば食べた」
「でしょ、たまにはいいよね」

 ちょうど俺はグラスに口をつけていたので、目と顔全体で軽く肯定の意を示す。冷たいお茶がからだを通っていくのを感じながら、先程と同じ分量の焼きそばを自分の取り皿に盛って、残りをの皿に取り分けた。「ありがとう」と聞き慣れた声が鼓膜を震わせる。先程一瞬だけキッチンで見せた心細げな雰囲気はもう一切見えず、どこか子供じみている、というのは実際お子様なわけではないと目が覚めるように気づいてしまった。

「また、すぐ会えるだろ」
「なに?」
「……いや、なんか、帰りたくないのかと、思って」
「帰りたくないよ、でも帰らないと、また次、独歩に会えないから帰る」

 それはにとってきちんと筋の通っている理論らしく、会話はそこですっぱりと終わって、焼きそばを胃袋へ詰め込むように食べていく。俺より半分くらいの鈍な速度で胃に収まっていく焼きそばは、俺が食べているそれと同じ味、同じ人間が作ったもの。結局、換気扇が未だに回っているうえに、できたての焼きそばのせいで彼女の髪に匂いがついたのかは判断できなかった。髪に触れたいという衝動を、いつでも触れられる余裕でいなした俺は満腹感を抱えて、椅子の背もたれに身体を預ける。先程より量が少なかったお陰か、想像より早く食べ終わったが箸を置いてすぐ、髪の毛先をつまんで鼻先に近づけた。なにを言うだろうか、くだらないことの割りになぜか前のめりになって言葉を待ってしまう俺がいる。そんなことにまったく気づいていないが俺の視線を一点に集めたうえで、わからないと言いたげに眉根を寄せて首を傾げた。
 部屋に残ったソースの匂い、まだ染みついているのは他にキッチンで聞こえた彼女の鼻歌のやわらかい響き。俺は立ち上がって、のなにもついていない口元をそっとティッシュで拭う、ついてた?と問う声。嘘はつきたくなかったから、俺はなにを言うでもなくそのティッシュをぐしゃぐしゃと丸めて、すぐにゴミ箱に放り投げる。強く丸めたティッシュはなにも吸い込んでいないせいか、不格好な軌道でよろよろと、それでも真っ直ぐゴミ箱に入っていって、「わっ、すごい」というの無邪気な声と拍手が部屋に響いた。