ティラミスの傍らでキスして



 下馬評通りホワイトデーの男性社員の株は、営業部でもそこそこイケメンと称されているエリート社員の田中さんと加藤さんが二人で掻っ攫い、逆に大暴落したのは今年もお返しをしていない観音坂さんであった。
 去年田中さんから貰ったハンドクリームをデスクに置いていた同僚は今年も満足そうにしていて、加藤さんもちょっとしゃれた消えものを去年くらいから配るようになっていた。だいたい、このご時世バレンタインデーのチョコレートですら仕事を円滑にするために配っているのだ。いらないという顔をする男性が一定数いるのもわかった上で、逆に渡さないことで生まれる人間関係の軋轢の方を懸念している。
 日々おモテになると終ぞ推測している加藤さんはバレンタインデー反対派だったように見えて、去年今年ときちんとお返しを渡してくれるようになった。女性社員のチョコレートに本命が混じっているのは明らかなのだけれど、はっきりとした義理に義理を返す方が効率的だとわかってくれたのだろう。わたしは引き出しに入れてある加藤さんから頂いたちょっといいお菓子と、田中さんから頂いた石鹸について思いを馳せながら黙々と仕事をこなす。
 退社時間は刻々と迫っていて、各々の恋愛結果もそろそろ出る頃だろう。他人事みたいな顔のままわたしは時計の針が進むのをじっと待っていた。少し遠いデスクでパソコンに向かう観音坂さんのことを考えたりしながら。本当に思いを馳せているのは引き出しに入っているお菓子や石鹸についてではなく、同僚がそういったお返しをしているにも関わらずなんのお返しもしないと言われている観音坂さんの事だ。
 別に酷い人だなどと考えている訳では無いし、わたしは観音坂さんに彼女がいるのかどうかすらも知らない。親しくはないのだから。他の社員との当たり障りのない世間話から窺えるどうやら釣りが好きらしいだとか知り合いに医者とホストがいるだとか、そういう誰でも知れるようなことしか知らず、彼女の有無すらもわからない。バレンタインデー、周りに気付かれないように観音坂さんのものだけ他より少し良いものを渡していることを、きっと、誰も知らない。そのチョコレートを観音坂さんが食べているのか、存在しているかもわからない彼女にあげてしまったのか、そんなことはどちらでもいいのだ。「いつもお世話になっています。まだまだ寒い日が続きますので無理せずご自愛下さい。」と書いたカードも、彼に渡すものだけに入れた。面白みがなく、もはや印象としてはプラスよりもマイナスにしかならないようなカードでも、やっぱり渡したかった。今、あのカードは再利用紙にでもなっているのだろうか。
 カタカタ、カタカタ、同じテンポで響くキーボードの音を遮ったのは、ぎょっとするほど武骨で、細くて、長い指先だった。画面の前に差し出された手に一瞬息が止まって、ゆるゆると顔をあげるとそこには観音坂さんがいて、ぱちり、と下眼瞼に隈の浮かんだ青い瞳と視線が合った。

「……あの、さん何時に上がりますか」
「えっと、今日は定時に、」
「帰る前、に、少し時間を頂いてもよろしいでしょうか」
「あ、はい」
「帰る時、声かけてください」
「……わ、かりました」
「突然、すみません、でした」

 椅子に座ったまま見上げた観音坂さんはいつも以上に困ったような顔をしていて、わたしは首を傾げた。それからパソコンの画面に目を戻して、ひたすらにタイピングを続ける。打ち込まれていく文字の間に観音坂さんの指先の幻影が残っている。遠くで加藤さんの声が聞こえたような気がして振り返ると、加藤さんは見えなかったけれど観音坂さんの横に立って田中さんがコーヒーを飲んでいた。目が合い、彼がどこか悪戯っ子のような笑顔で手を振ってくる。手をキーボードから離すのが面倒で会釈のつもりで軽く頭を下げると、田中さんは片方の眉を上げるようにしてから同じくらいの角度で片方の唇もあげた。観音坂さんがこちらを見る前にわたしは画面に視線を戻す。右下に表示される時間は刻一刻と定時に近づいている。喉が締まりそうになって、でもそういう鬼気迫る感情の時ほど仕事は捗り、溜まっていた細かい業務までもが一瞬で終わってしまった。馬の目の前に人参を垂らす、というのは意外と人間にも同様の効果があるものなのかもしれない。最終チェックを行った後にデスク周りをざっと片付けて、帰り支度をするでもなく、作業の途中と言わんばかりのまま、あまり目立たないように観音坂さんの所へ向かった。
 一応デスクで一瞬だけ見た鏡の中の自分は面接前みたいな顔をしていて、そっと唇にだけ色を足した指が震えていて、今時高校生でもそんな風にならないのに、と笑ってしまう。ぐるぐると、迷惑だとかなんとか言われるのかと憂慮を忍ばせた悪い想像もしたけれど、ホワイトデーに言うことではないか、と気が付いて深くは考えなかった。お疲れ様です、と声をかけると、すぐに観音坂さんがこちらを向いて、ひとつひとつ細切れみたいなぎこちない動作で立ち上がる。通勤用の観音坂さんの鞄はこんな形をしていたのか、と掴んだ大きな手に見惚れながら考えていた。社内のここ数年で出来た簡易喫煙ルームの奥にあるデッドスペースみたいな空間まで迷いもせず真っ直ぐに向かったあと、こちらを振り向く。二人でこんなに静かに向かい合うのは初めてのような気がして、学生時代先輩に憧れていた頃を思い出した。

「あの……あー、もう帰ります、よね。鞄とか」
「あ、要件が分からなかったのでとりあえず来ました、終わったら取りに行きます」
「あ、はい、ええっと、ちょっと待ってください、帰りますよね、いまあれするんで」
「全然用事もないのでゆっくりで大丈夫ですよ」

 観音坂さんは片足を軽く上げて鞄の中身をごそごそと探っている。俯いた顔もまだ高くて遠くて、「あ、」と言った唇のかたちがまん丸くて、目が合うと、観音坂さんはすごい速さで視線を別の方向に向けた。お互いにぶつかった視線の地点で、閃光のようにちいさな爆発が起きている事に気が付いているのだ。普通は起きないびりびりいうような爆発がどうして起きているのか、田中さんでは起きなかった、観音坂さんで起きるはずもないと思っていた。わたしのいつもの一方通行だと信じていた視線が、今日は、どうしてこんな風に。鞄からちいさくラッピングされた小箱を取り出した観音坂さんが、わたしにそれをそっと差し出してくれる。

「あの、ホワイトデー」
「……えっ」
「バレンタイン、はありがとうございました。チョコとか、俺、そんなに食べないけど、美味しかったです」
「観音坂さんが食べたんですか」
「えっ…!お、俺にじゃなかったとか」
「えっ、いや、男の人ってチョコとか好きじゃない人が多いから、彼女さんとかにあげちゃうのかな、って」
「……あ、ああ、なるほど、そういう……。さんからのチョコ、そんな風にしないです、彼女もいないし」

 観音坂さんが差し出している白い曲線がかった小箱には有名ブランドのロゴが入っている。受け取ると小さな箱の中で細いものがころころと転がって、中身が大体想像がついたうえで、あまり理解が出来なかった。箱には細い二本のリボンがきちんとラッピングの様相で巻かれていて、箱を蓋するために貼られた透明のシールを剥がすべきか戸惑う。両手で受け取った小箱の意味を未だ理解できないまま、ただ「ありがとうございます」と頭を下げた。考えても考えても理由がまったくわからない、というか、期待してしまっていいのかもわからなくて、指先がまた透明のシールに触れる。

「お返し、とかあんまり分からなかったから、なんか、すみません」
「……いえ、嬉しいです」
「俺も毎年、さんがチョコとカードくれるの嬉しくて、全然返せてないのはやばい、って気付いて、ひふ……友人に相談して」
「そうなんですね」

 他人の動向なんて特に気にしていなかったけれど、確かに観音坂さんに皆はどんなものをあげているのだろうか。あげていないことは無いはずだけれど、田中さんや加藤さんにだけ特別、はあっても、観音坂さんに特別、という人は多分いない。恋愛感情的な意味でも、もしそういう女性社員がいた場合、流石にわたしももっと行動を起こしていた、と、思う。
 すこしざらついたマット地の白い箱を指で撫でる、どこか心がざわついていて、早く開けたいような、ずっと開けないでいたいような気持ちになった。いつの間にか身体中が心臓になったみたいに鼓動を叩いていて、喉がうまく動いてくれない。鞄を普通に持っている観音坂さんがちょっとだけ後ろに下がって、下がった分お互いに表情がよく見えるようになってしまう。
 頬が熱くて、もしかしたら耳も赤くなっているかもしれない。引き留めていてもしょうがないし、話を切り上げるべきだろうかと指先の腹で箱を何度も何度も撫でるように触りながら、最後にお礼を言って立ち去るシミュレーションを脳内で繰り返す。足が動かないのは、あと一秒でもこの空間を維持していたいと傲慢にも願ってしまっているから。何十分にも思える沈黙を破った観音坂さんの声は、なぜかさっきよりもずっと固い。

さん」
「はい」
「あの、この後、なんもないんだったら、飯とかは、どうでしょうか」
「えっと、それは、二人でという、」
「あ、嫌だったら」
「嫌じゃないです、ぜひ」

 彼の言葉を最後まで聞くでもなく出た、ぜひ、という自分の言葉の強さみたいなものに、わたしはまたどんどんと顔と身体が熱くなっているのに、観音坂さんはふにゃりと顔を緩めて笑う。「じゃ、じゃあ、お互い準備してエレベーター前でいいですか」、と言われてわたしは壊れたロボットみたいに三回くらいこくこくと頷いた。白い箱の中身がころころと動いて、心臓の音で動いていると言われても驚かないくらい、心臓は皮膚を突き破りそうに鼓動を速めていた。ばかみたいに血の巡りが良くなっている身体で、少し先を歩き出す、見慣れたデスクの同僚のいる場所に戻る背中を見つめる。そっと爪で透明のシールを剥がして中身を覗き込むと、予想通りのアイテムが入っていた。
 観音坂さんが自分で選んだのだろうか、指で引き出そうとして止める。五歩くらい先にいる観音坂さんの背中が見えなくなってから、わたしはそっと中に入っているものを取り出して、お手洗いへ向かった。鏡に映る自分の顔はびっくりするくらいに真っ赤で、手はまだ少し震えている。メタリックカラーの箱に入っていたリップ本体をそっと取り出して、塗りなおしたばかりのリップの上からそれを唇の上に乗せると、噂通り唇の端がぴりぴりとした。スパチュラに染み込んだグロスの、カスタードクリームのような甘い香りを深く吸い込んで、息を大きく吐く。深呼吸を数回したあと、マトリョシカの如く箱を全て元通りに仕舞うと急いで自分のデスクに戻った。いの一番に、よく目立つ白い箱を鞄に納めて、さっきよりもつやつやした甘い匂いのする唇でエレベーターホールへ向かう。お疲れ様ですと習慣になっている声を出すとひときわ大きく加藤さんと田中さんの声が事務所から聞こえて、振り返るといつもいつも遅くまで残っている観音坂さんの姿はもうなかった。声を出したとは思えないくらいしれっとした二人の後頭部を一瞬視界の端に納めたわたしはヒールの音を立てないように注意して、けれども急いで、彼が待つ場所へ向かう。
 エレベーターの前に立っている観音坂さんの後姿は所在なさげで、声をかけると、眉をはの字にしないで観音坂さんは「お疲れ様です」と薄く笑ってくれる。

「お返しありがとうございます。早速つけました」
「え、ああ」
「さっき言いそびれたので」
「いや、……良かった」

 良かった、という言葉が少しちぐはぐな気がしたものの、「お礼を言って貰えて良かった」という意味だとひとまず理解して、わたしはエレベーターのボタンを押した。観音坂さんの横に立つと、「あの、」という横顔、耳が、さっき鏡で見たわたしと同じ色に染まっている観音坂さんがもごもごと口を動かす。エレベーターがわたしたちのいる階に近づいている。心がなにかに押されて浮き上がっているみたいだ。

「似合ってるって、意味なんですけど、」
「……な、るほ、ど」
「日本語、難しいな」

 エレベーターはあと二階分ほどでわたしたちのところに上って来る。こちらを向いた観音坂さんは相変わらずの困り眉で僅かに緊張を孕んだ表情で静かに微笑みを湛えていて、わたしはたくさんある言葉の中からどれを選んだらいいのかわからなくなってしまった。難しいことに同意するのか、褒められたことに感謝の言葉を返すのか。まったく、日本語は難しくて、人間の心も難しくて、けれども、こんなに苦しくて甘い感情はきっと、今の会話でしか味わえない。
 カスタードクリームの香りのする唇でわたしはたくさんの言葉を考えて、選りすぐって、それから口を開く。鼻孔を擽る甘ったるい香りで紡ぐ言葉では、きっとどんな台詞を選んでも、溶けそうに甘い、剥き出しの恋心を透かしてしまう。