蹴るのはよしてよ



 前髪を切った。それはもう綺麗なぱっつん。理由はすごく単純で、好きな人がぱっつん前髪が好きだと言っていたから。本当に我ながら単純。それが先週の話。そして、その好きな人が別の部署の子と付き合っていると宣言してきたのが今日。彼女がいる雰囲気なんてなかったじゃないだとか、どうしてもう少し早く言ってくれなかったのだとか、わたしの前髪と恋心を返してくれだとか、言いたいことはそれこそ山のようにたくさんあるけれど、所詮は全部八つ当たりだ。結局、彼女がいるなんて可能性を考えもせずに浮かれて彼の好みになろうとして前髪を切ったわたしの単純さが全て悪い。

「だから言っただろ、切るなって」

 お祝いムードに耐えきれなくて、飲み物を買ってくると言って休憩所に逃げた。飲みたいものなんてあるわけもなく、小銭を投入するでもなくボタンを押すでもなく自動販売機に並んでいるラベルをぼうっと見ていると、後ろから呆れたように声を掛けられる。

「……観音坂」
「本当に、お前は単純だな」

 ちょっとばかにしたように鼻で笑って、観音坂はわたしの横に並んで自動販売機にお金を入れるとすぐに缶コーヒーのボタンを押した。ガコン、と缶が落ちる重たい音が閑散とした休憩所にやけに響く。
 観音坂は同じ営業部の同期で、陰気なくせに無駄に顔はいいのだけれどもそれを上回るくらいに性格が悪い。仕事は丁寧だし充分出来て業務成績一位だって取ったことがあるはずなのに、その陰気な外面のせいか目上の相手に強く出れない性格のせいか、同僚には舐められがちだし直属の上司であるハゲ課長から頻繁に皮肉やら小言やらを言われている。実のところ観音坂は高校からの同級生で同期だから、異性とはいえそれなりに仲は良い方で、奇跡的に残業が少なく終わった日には居酒屋でハゲ課長のえげつない愚痴を言いながら酒を飲むのが通例だった。だから今更取り繕う関係でもなく、それなりに親交を深めてみれば歯に衣着せぬ物言いをするようになった観音坂とは大体いつもこんな感じだ。流行りのおしゃれなお店に行きたいと言えば、お前には似合わないよ、と近くの居酒屋に連れていかれるし、可愛いピアスを買ってつけてみれば、ピアスが浮いていてかわいそうだと言う。観音坂はわたしの恋心も相手も知っていて、わたしが前髪を切ると言ったときもやめておけと止められた。今更ながら、言う通りにしておけばよかったとひどく後悔している。

「なに、笑いに来たの?」
「は?そんな性格悪くないし、普通に喉乾いたんだよ。は?何か飲むんじゃないのか?」
「……いらない」

 わたしがそう言うと隣の観音坂は、はあ、と処置なしと言わんばかりにため息を吐いて、もう一度自動販売機にお金を入れた。その指は先程と同じブラックコーヒーに伸びる。

「ほら、これやるから」
「……ありがと」

 消え入りそうな声でお礼を言って缶コーヒーを受け取る。ブラックコーヒーは苦手で滅多なことがない限り飲まないけれど、せっかくもらったし、今のわたしにはこのくらい苦いほうがぴったりかもしれない。プルタブを引いて缶を開けて、まるでビールのジョッキやエナジードリンクを傾けるみたいに呷るような勢いで喉に流し込んだブラックコーヒーは、たまに飲むものより何倍も苦く感じて舌根と喉をちくちくと刺した。

「そんな落ち込むなよ。今日は俺が奢ってやるから」
「……今日?」
「……なに、お前忘れてたのか?今日終わり次第いつもの居酒屋で、って約束してただろ」

 そういえばそうだったような気もする。交際宣言の衝撃が大きすぎて、観音坂に言われてなかったらすっかり忘れてそのまま帰ってしまうところだった。きっと観音坂も励ましてくれるだろうし、ひとりでいるよりも全然いい。しかも珍しく奢ってまでくれるらしい。

「……まあ、俺はお前の髪型とかどうでもいいけど」

 ちょっとだけ、ちょっとだけ元気になったところで観音坂はわたしをどん底へ突き落とすようなひどいことを言う。
 どうでもいいだなんて、確かに観音坂にとってはそうかもしれないけれど、今のわたしにはその言葉はコーヒーの苦味よりもなによりも辛い。今日は観音坂に頼ってしまいたい気分だったし、観音坂も頼らせてくれそうだったのに、今の一言は「お前のことは俺にとってはどうでもいい」という意味と同義に聞こえて、なんだか拒絶されているような気持ちになってしまった。

「……ほんっと、性格悪い」
「は、なに、、泣いてんの」
「こんなときにまで、どうでもいいとか、そんなこと言わなくてもいいじゃない……さいてい」

 気がついたら涙がじわりと滲んできて、大粒に膨れ上がったそれがまつげの手前でぷかぷかと揺れる。好きな人の交際を聞いても泣かなかったのに、なんで今になって、ここで涙が出てくるんだろう。観音坂には今まで情けないところを何度も見られてきたけれど、今回に限っては今にも零れてしまいそうな涙を堪えるこの顔をどうしても見られたくなくて、その場から立ち去ろうと踵を返して歩き出したけれど、俯いているわたしの視界ににゅっと長い脚が現れて行く手を拒んだ。

「……違うんだって、あのな、俺にはの髪型は関係ないって言いたくて……」
「……それさっきと一緒じゃない」
「あー、そっか……いや、そういうんじゃなくて、」

 どこか動揺したような声色でそう言ったきり、観音坂の声は聴こえてこない。わたしは下を向いて俯いたままでいるから、観音坂が今どんな表情をしているのかはわからない。わたしも観音坂もなにも言わなくて、突如静謐が訪れた休憩所に長いながい沈黙が降り積もる。
 その沈黙を、振り払ったのは観音坂の方だった。

「……だっ、から、俺は、どんな髪型でもお前ならいいって言いたいんだよ!」

 手に持った缶コーヒーを取り落とさなかったのは奇跡だったかもしれない。
 ひどく言いにくそうに、けれどはっきりと叫ぶように言った観音坂の言葉に一瞬思考が止まって、その意味を脳内で咀嚼するまでに時間がかかってしまう。そうして、全てを理解した瞬間、かっ、と顔が熱を持ったのが自分でもわかった。ひょっとしたら恋煩いに浮かされたわたしの妄想による勘違いかもしれないし、ただの自惚れかもしれない。違ったらどうしよう、なんて再びどん底に叩き落される恐怖を想定して胃の奥がひやりとしたけれど、そろそろと視線と顔を上げたときに見えた観音坂の顔がびっくりするくらいに真っ赤だったものだから、それが勘違いでもなんでもなく言葉通りの正解だと、わかるには充分だった。

「……え、う、うそ」
「……嘘じゃない」
「だって、全然そんな感じなかったじゃない……」
「……お前が鈍いんだよ、ばーか」

 べ、と悪戯に舌を出しながらそう言い残して踵を返し先に事務所に戻っていく観音坂の背中をすぐに追いかけることはできなかった。観音坂が、わたしのこと好きってこと?あんないじわるで性格悪いのに?顔は文句なしだけど、でも、でも。

「……今日、どんな顔してればいいの」

 余裕ぶっているくせに耳の赤みを誤魔化せていなかった観音坂も、きっと動揺していてこの後の仕事のことや、その後の飲みに行く約束のことを考えていなかったに違いない。いつも頭の中で外聞やら体裁やら体面やらも含めていろんなことをぐるぐると考えて考えて用心深く言葉を吐き出す傾向のある観音坂らしくもない浅慮な言動だった。それでも、わたしだって観音坂の告白を嫌だとは微塵も感じなかったのだから手に負えない。今まで意識してもいなかった事柄を急に意識してしまうとどうしたって緊張はしてしまうもので、先程まではまったく渇いていなかったはずの喉が今は必死に渇きを訴えてきていている。
 奇跡的に取り落とさずに済んだ缶コーヒーの残りをぐっと呷れば、砂糖なんて少しも入っていないブラックであるはずのそれがひどく甘く感じた。