今日の仕事はきっと終電がなくなる前には終わる。夕食をわざわざ作るのは面倒だからどっかで買って済ましてしまおう、なんて仕事と仕事の合間に考えながらなんとなく携帯を手に取ると、それがチカチカと着信を意味する光を放っていることに気が付いて、開いてみればからメールが届いていた。
からメールが来ること自体はそんなに珍しいわけでもないけれど、なぜか珍しい気がして本文に目を通すと、それは確かに、とても珍しいものだった。思わず口元がふにゃふにゃと緩む。目が少し細められて、ああ俺、今にやけてるなあ、なんて思って、それでも会社でへらへらしているとまたハゲ課長に何を言われるかわかったもんじゃないから、そっと唇を引き結んだ。
そんな数時間前を思い出しながらポケットに入った鍵を取り出す。仕事は無事に追加を押し付けられることもなく、予定通り終電前になんとか終わって、俺は今までにないくらい早く家へと帰宅しているのかもしれない。正直がんばったもんな。
ただいま、とわざわざ口の端が無駄に上がらないように意識しながら玄関へ足を踏み入れた。携帯が知らせた文面によると、がごはんを作って俺の帰りを待っていてくれるらしい。彼女がそんなことを言うのは初めてで、このドアを開けたらエプロンつけたままで迎えてくれるのか、何色だろう、やっぱ白？ピンクとかも彼女にはよく似合ってかわいいだろうけど控えめにベージュとか、いや淡い青色だったり、なんて少し前まで脳内ではあまり外に漏れたくないような内容が舞っていた。でも本当はそんなことどうでもよくて、とにかく彼女が俺の帰りを待っていて、そのうえ手料理まで披露してくれるというのが純粋に嬉しかった。
けれども、そんな俺をまず出迎えてくれたのは、微かに目に見えるようになった空気。な、なんだこれ。そして鼻につく焦げたようなにおいが一緒に襲ってきて、正直あまりいい気分ではない。それに気づくのには数秒の時間を必要として、この状況を把握するのにその何倍も時は進んだと思う。
「ど、独歩くん……おかえりなさい……」
濁った黒い空気に纏われてキッチンから顔を出したはエプロンなんかしてなくて、いつも通りとは言えない強張った表情で俺を見た。
「どうした、これ」
思わずそう口に出てしまったけれども、ここはまず彼女を心配するべきだったかもしれない。だけどなんとなく、の身になにか障害が起きたわけではないと直感的に脳が判断をしてそんな言葉が出たのだった。
「いや、あの、……ごめんなさい」
「……は、なにが」
「ええーと、ちょっと、やらかしたといいますか……」
ごにょごにょと要領を得ず歯切れの悪い彼女の言葉を聞きながら、とにかく俺は靴を脱いで短い廊下を突き進んだ。俺が先へ先へ足を進める度に不自然かつ引きつった笑みをこぼす彼女を横目で見ながら、目に付いたのは少し荒れたキッチンだ。
うわ、そんな声が無意識に小さく零れてしまう。は俺の一歩うしろで「ちょっと失敗しちゃって……ごめん、ちゃんと片付けるから！来たときよりもきれいにする！」なんて申し訳なさそうに言っていて、ここは山か海なのかと心の中でつっこみを入れていると、「なんていうかつまり、ごはんは一切できていなくてですね……」と続ける。後ろめたさからか俺の目を見れないまま冷たいフローリングばかりを見つめる彼女に、なんだか胸の奥底からあたたかいものが込み上げてきて、いいよ、と言った表情はたぶん、どうしようもなく笑っていた。俺って料理できる女の子が好きじゃなかったっけ、とも思うけれど、彼女をいとおしく思う気持ちには何の変化もない。それどころかさらに大きく膨らんでいっている気がする。へんなの。そう考えながらさらに柔らかく目を細めた。
「え、っと、でも、独歩くんおなか空いてるよね？とりあえずなにか、頼もうか」
「ん？」
「材料はまだあるんだけどね、頼んだ方が絶対早いし、確実だし」
だから何か食べたいものはないか、と既にデリバリーを頼む気になっているのか携帯を取り出しながらは俺に尋ねた。俺はちらりと壁に掛けてある時計を一瞥してから、とりあえずスーツの上着を脱いで財布をスラックスのポケットから抜き取ってテーブルに置くと、作ろう、と顔を緩めて腕まくりをしてをキッチンへ誘い込む。一二三みたいにうまくは作れないだろうけど、まあ問題はないだろう。先程脱いだスーツのポケットから取り出したスマホの画面に指を滑らせてクックパッドを起動させる。え、でも、と困惑した様子のは携帯を手にしたままなかなか動かなくて、俺が先にキッチンへと立ってまず片付け始めると、慌てて彼女も隣に来て倣うように片付けを始めた。その様子に、はは、と思わず声を漏らしながら感じたのは、こういうのもたまにはいいよな、って。
おかえりって出迎えてくれて、ごはん出来てるよ、って微笑んでくれるのもいいけど、こうやって、ふたりでなにかを作るのもなかなかにあたたかいものだと、そう柄にもなく思ったのだった。