「冬になるとチョコレート食べたくなるよね」
その言葉と、彼女の柔らかい笑顔が突然フラッシュバックしたのは多分、横に座っている一二三のせいだ。先生が席を外している、暖房のよく効いた診察室の空気にほのかに広がる甘ったるい香りは、本人にいちいち告げるほど不快ではないけれど、決して良い気分でもない。ちらりと横目で見ると、チョコレートを口に運びながら忙しそうにスマホに目を通している。
「なに?独歩チョコ欲しいの?」
視線に気づいたのか、急にこっちを向くから少し驚いた。いらないよ。そうぶっきらぼうに返すと、一二三は少しだけ驚いたように目をぱちりと瞬かせると、机に頬杖を突いて口許を弓形に歪め、なんとも意味ありげな笑みを見せてくる。
「……さてはなんかあっただろ〜!」
「何が」
「ちゃんと!」
「はあ?別に何もない」
ふぅん?と俺の返答に不満そうな顔をした一二三はまた姿勢を正してスマホに目線を落とした。別に、本当に何もないから、嘘はついていない。いま何してるかな、とはちょっと考えたけど。一二三が勝手に用意した菓子盆に置かれていた小さなチョコレートをひとつ、一二三にバレないようにこっそりポケットに入れた。あ、あと帰るとき、覚えていたらコンビニに寄ろう。
「お帰りなさい」
いつもの問診を終えて帰宅したら、ぱたぱたとスリッパの音を立てて彼女が玄関で俺を迎えてくれた。寒い、ともう口癖みたいに口の端からぼろりとこぼしたら、お疲れさま、今日はお鍋だよ、と目許を緩めてあたたかく笑う。
「……あ」
「え、なに?」
「忘れてた」
問診終わりに携帯のメッセージアプリを開いたら「今日はお鍋!」と連絡が来ていたものだから、楽しみすぎてまっすぐ帰ってきた俺はコンビニに寄るのをすっかり忘れてしまっていた。そのいきさつを、彼女は相槌を打ちながら聞いてくれる。
「どうする?今からコンビニ行く?なに買うの?」
「……あ、」
そこでようやく病院でのことを思い出して、ポケットに手を突っ込んだ。小さなチョコレートがひとつ。手出して、と言いながら差し出したら彼女がぱっと目を輝かせる。
「え!ありがとう。なんで?」
「……冬になるとチョコレート食べたくなるって、誰かが言ってたから」
「……独歩くん、記憶力いいねえ」
スーパーですぐに買えるような小さなチョコレートを、まるで宝物みたいに両手に乗せて大切そうに見つめている。あんまりにも嬉しそうだから、なんだか俺まで嬉しくなってきてしまう。
「、そんなチョコ好きだったっけ」
「チョコも好きだけど、独歩くんが覚えててくれたのが嬉しいなって」
ありがとう、ともう一度付け加えてからにっこりと笑う。
「わたしこれから毎年言うね。冬になるとチョコレート食べたくなるって」
「……なんで」
「そうしたら、冬になるたび独歩くんはわたしのこと思い出してくれるでしょ」
どこか誇らしげながそう言うものだから、多分相当おかしな顔になってたんだと思う。お互いのきょとんとした表情と微妙な沈黙はちょっとだけ笑えた。思い出すって、それ以前に。
「忘れるわけないだろ」
ぶわりとあたたかな気持ちが溢れてつい衝動的に抱きしめてしまったことも、次の日、ふたりともチョコレートを買って帰ってしまったことも。きっとそれらはどこにでもあるなんの変哲もないありふれた日常で、決して特別なものではないけれど。それでも、こんなのも悪くないな、って思う日々がこれからも続いたらいい。
ふとしたときに思い出して、心があたたかくなって、ついつい顔が綻んでしまうような、そんな日々が。