chocolate



 彼がいなくなって気付いたことなんて山ほどある。ひとりで住むには広すぎる部屋、そういえばドライヤーはわたしの物じゃなかったんだっけ。目に見えることだけじゃない。平気だって強がってた自分の弱さも、彼の優しさや思いをなおざりにしていたことだってわたしは最後の最後まで気付けなかった。この部屋に居れば居るほど、どうやらどんどんと生気を奪われているらしい。誰かの後押しが欲しくて行った、よく当たると噂の占いの結果は散々だった。さっさと引っ越そう。掃除をしようと決めていたのにインターホンが鳴るまで動く気力すら無かったから、きっとこの部屋にはわたしには見えない呪いかなにかが住んでいるんだと思う。

「……、生きてるか?」
「ううん、死んでるよ」
「ふざけるなって」
「どうぞ。汚いけど」

 職場が同じで同期だとはいえ、たったそれだけの関係性なのに、観音坂は随分と世話焼きだと思う。そういう性格っていつか損するんじゃないかって、こっちが心配してしまうくらい。いや実際、会社ではハゲのクソ上司にめちゃくちゃな仕事量を回されて貧乏くじ引きまくってるんだけど。辛うじて部屋の暖房だけ効いている部屋を観音坂はぐるりと見回して、ため息を一回吐いた。元恋人は観音坂の先輩で、わたしの先輩でもあった。コミュ障と呼んでも良い観音坂にも先入観も別け隔てもなく接してくれる人で、過去に何度か観音坂を招いて三人でご飯を食べたこともある。けれども、その頃とは雲泥の差だと思う。生活感もぬくもりも、この部屋にはもう、なにひとつなくなってしまった。

「わざわざ来てくれてありがとう」
「……別に、いいけど。どうした?」

 別に、おおっぴらに喋ったわけじゃない。けれども、誰かに話した彼との決別はインフルエンザみたいに次から次へと伝染して、すぐに社内中に広まった。昇進と海外出張が決まった彼を引き止めることも、繋ぎとめることも、わたしにはできなかった。

「……とりあえず、これ、手土産。冬になるとチョコレート食べたくなるって、前に言ってたから」

 ぶらさげていたコンビニのレジ袋からがさがさとチョコレートを取り出してわたしに手渡した。前にって、いつだっけ。随分と前な気がするけれど。なにも言わずに受け取って袋を開けてから、ひとつを口に放り込む。お徳用の透明なセロファンに包まれているそれは相変わらず甘ったるくて、おいしくて。だから、少し泣きたくなった。

「仕事、辞めようと思ってる」
「なんで」

 すかさず理由を聞くなんて意地悪だと思った。観音坂のことだからきっと、彼からもなにかしら聞いているはずなのに。

「先輩のせいか?」

 観音坂はいつもの気怠げな表情をどこに置いてきたのか、至って真面目な顔でわたしにそう投げかけてくる。悪意がある。そんな訊き方をされたら頷けるわけない。彼のせいだと思ったことなんて一度もないのに。頬を涙が伝ったら、苦しくなって両手で顔を覆った。

「……辞めてどうすんの」
「とりあえず、引っ越す」
「……そうか」

 そこから、観音坂はなんにも言わなかった。多分それは観音坂自身の優しさと、元彼の思いも知っていて板挟みになっている状況で困っていたのもあると思う。

「先輩、のこと好きだった、って、言ってたけど」

 それからしばらくして、わたしの涙が止まってようやく気持ちが落ち着いてきて、しんしんと降り積もった沈黙を振り払うように、コーヒー淹れようか?と問いかけたら、返ってきた返事はそれだった。観音坂はいったいなにを考えてるんだ。どうして話を蒸し返すようなことをするんだろう。戸惑って言葉が見つからないわたしに、観音坂は続けた。

「だから、しあわせになって欲しいって」
「……観音坂さ、今日わたしのこと泣かせに来たの?」
「いや……、に前を向いて欲しくて来たんだが」
「全然そんな感じないけど」
「……先輩に言われたんだよ」
「なんて?」
のこと頼むなって」
「……どういう意味?」

 観音坂は口元を手で隠して、すぐに答えてはくれなかった。彼と別れてから、周りの目の色が変わったのには気付いていた。わたしよりも周囲の方がわたしたちの恋愛を騒ぎ立てて、同情されたり腫れ物に触るみたいな接し方をされたり、少なくとも以前より良い印象ではなくなったことくらいは、どんなにバカで鈍感なわたしにもわかっていた。彼も、優しいから、そんなわたしを最後まで気にかけてくれていたんだと思う。そう考えたら情けなくてまた涙が出てきた。恐る恐るといった様子で頭を撫でられて、思わず身体が強張った。なんでもないようなその行動にひどく驚いてしまったのは、きっと、観音坂が自分の意思でわたしに触れたのが初めてだったからだと思う。

「……ありがと、観音坂」
「……冬になるとさ、っていうより、チョコレート見ると、俺、いつものこと思い出してたよ」
「え?」
「冬になると食べたくなるって言ってたなって。先輩の彼女だけど、きっとこれから先、何回も思い出すんだろうなって。忘れないんだろうなって、ずっと考えてた」

 観音坂は至って真面目な顔で話を続ける。一瞬の沈黙、こんな季節なのに、嘘みたいに身体が熱い。

「……好きなんだよ、俺。のこと」
「……え、ちょ、っと待ってよ」
「今すぐ付き合いたいとかじゃないし、仕事は辞めたって、別にいいと思う」

 ゆっくりと息を吸って、少し逡巡するように目を瞑ってから、すいと目線を上げて、どこか力強さを携えた瞳でわたしを見据える。
 あの人は、こんな未来をどこかで予感していたんだろうか。

「ただ、ひとりで消えるのは許さない」

 まるで心臓を直に鷲掴まれたような気分だった。
 バカなわたしの考えは、観音坂にも、彼にも、なにもかも、まるでお見通しだったらしい。

「……ありがと」
「あー……、もう、ほら、泣かなくていいから」

 冬になったらチョコレート食べたくなるよね。
 そんなセリフ、わたしはいつ言ったかも、むしろ言ったことすらも覚えていないというのに。けれどもわたしは、そんな観音坂の優しいところを、きっと、ずっと忘れないんだろうな。