唇に猛毒の嘘



 まだ気にしてんのかァ、天谷奴さんが棒アイスを齧りながら大きな唇をいびつに歪めた。
 その問いかけに答えるでもなく、ひっきりなしにぴかぴかと光るわたしのケータイを見つめていると、そのまま顎を掴んで唇を奪われた。偽物の果実の味が口いっぱいに広がって、反射的に瞑っていた目を開けると、満足げな天谷奴さんの顔が視界いっぱいに広がる。

「もう一回するか?」
「遠慮しておきます」
「ずっと掛かって来てるけどよ、連絡はしたんだろ?」
「……うん、した、けど、」
「愛されてんなぁ、良い事だぜ」

 当たり前のように、先程のことなんて微塵も覚えていないような顔をして、彼は眩しそうに目を細めて心底羨ましそうな声を上げた。
 別に彼氏のことはひとつも話さないし、背徳感を煽るような言葉は微塵も出さない。ただ、わたしには彼氏がいて、それが目の前でアイスを食べている人では決してないということだけ。
 現実だけを冴え冴えと突きつけたまま、このふたりには少し広く殺風景な部屋にいた。これではまるで漂流してしまったみたいだ、と思う。けれど本当は、正しく言うとするならば、漂流ではなくただの逃亡。しかもわたしひとりきりで、たった一人の大切なひとを裏切って閉じこもっているだけだ。清潔な部屋に天谷奴さんとわたし、ひとりとひとりが勝手に籠城しているだけだ。
 天谷奴さんはきっと、綺麗な服に、綺麗な靴に、鞄に、時計に、豪奢なアクセサリーに、すべてを身に着けていつでも外へ行ける。わたしは点滅する携帯から背中を向けて、この清潔な部屋に、白いシーツに隠れることしかできない。綺麗な靴も、服も、唇をあかく彩る口紅も、きちんと持っていたはずなのに。この部屋にいると、いや、天谷奴さんとふたりになると、まるで何も持っていない気分になる。
 わたしを愛してくれる男が一人いる。それだけは持っているものとして事実として離れることはないのに、それ以外何も持っていない、手持無沙汰で心もとない子供のような心細い気持ち。そんな寂寞にも似た気持ちを埋めるために、目前の男の名前を何度も何度も繰り返し呼んで、けれどコピーアンドペーストしたような完璧な微笑みしか返ってこないことも知っている。

「……あ、ちょっと溶けてきたわ、落ちる」
「え、待って待ってティッシュ」
「あーほら、今のうちに食え、落ちるから」
「待っ、つめっ、あーー……」
「なんだその顔、面白い事になってるぞ」
「知覚過敏なの、天谷奴さんがちんたら食べてるから駄目なんだよ」

 溶けかかったアイスの半分ほどを無理やり流し込みながら呟くと、天谷奴さんは棒に残ったほんの少しの欠片を口に運んで、しかもちょっと味わった後に、コピーアンドペーストではないにんまりとした笑顔でわたしを下から覗き込むように見た。

「よく俺にそんなこと言えたなァ、チャン」
「だめでしたか?」
「いやぁ、いいならな。いいんじゃあねえか、俺は知らないが、」

 天谷奴さんはそう言って立ち上がると、この孤島からさっさといなくなる。手を洗いに行ったのだろう、わたしも行きたいような気がしたけれど、結局もだもだとしている間に天谷奴さんは戻ってきてしまった。
 ペットボトルを二本持って、片方はわたしに差し出して、また、ひとりから、ひとりとひとりの場所に変わる。見慣れたパッケージを手のひらで転がして、キャップを捻って口をつけるとその飲み慣れた味に現実を思い出す。
 天谷奴さんのわたしでも、わたしの天谷奴さんでもないはずなのに、キスも、それ以上のこともする、という事実に。

「それ、いつも飲んでるやつだろ」
「お茶?」
「ああ、そう、ちゃん用にさっき買ったんだよ」
「……ありがと」
「なぁ、いい加減携帯開いてやれよ、流石に」

 天谷奴さんはいつでもここから出て行けるのだろう、いや、元からここは二人の場所なんかじゃない。ただ、わたしが天谷奴さんにくっついて、離れられないだけだ。
 彼が用意してくれたというだけでいつもの何億倍も美味しいと感じる、愛おしいお茶のボトルを軽く撫でて携帯に手を伸ばす。パスコードを入力して携帯を開けば、帰りはどうするの、だとか、大丈夫?だとか、あとはそれに付随したスタンプが雪崩のように襲ってくる。大丈夫、とか、帰りはタクシーだから、とか合間にスタンプを挟みながら、いつもと同じわたしを思い出そうとする。

チャン、こっち見な」
「はい」

 ちゅう、とまた唇を奪われた。
 そうやって簡単に、天谷奴さんはわたしを動けなくさせる。ここに根を張って動きたくないと駄々を捏ねたくなるほど。そんな強まる感情をわかっているのか、彼の言葉は行動より乾いている。

「で、いつ帰るんだ?ああ、別に帰って欲しいってわけじゃあねえが、」
「どうしようかな」
「俺はいつまでも居てくれて良いけどなぁ、」

 当たり前のようにそう溢す、伏し目がちの顔があまりにも美しくて目を奪われる。
 もう、一生、ここに、何も持たないわたしでいたいと願うけれど、そんなわたしを彼は許してくれないだろう。ただただ丁度良いわたしを丁度良く弄んでいて欲しい、いつまでも、いつまでも、飽きないで欲しい。
 一生隣に、なんて、そんな望みはいつの間にか失っていた。けれど、天谷奴さんが他の人をこんな目で見ているところを、わたしは見ないで済むといいな、と思う。誰かたった一人に縛られる彼を想像はできないけれど、わたしは、わたしを愛してくれる優しい男を隣に引き連れて微笑むだろう。
 彼の、几帳面に切られた爪や、武骨な手や、やけに金色のアクセサリが似合う肌、そして何度も重ねた唇や視線を思い出して。

「天谷奴さん、」

 なんだ、と言いかけた彼に唇を押し付けると、そのままベッドに引きずり込まれた。
 帰りたくない、とも、置いていかないで、とも、愛して、とも永遠に言えないまま。