へたくそなままでいいよ



 真上から声をかけられた。
 駅前の広場の隅っこにしゃがみ込んでギターを爪弾く自分はヴィジュアル系ミュージシャンでもBad Ass Templeのメンバーでもなくって、四十物十四という一人の人間だった。自分の作った歌をただ声を張り上げて歌った。レコーディングがあったせいで少し喉は枯れていたけれど、歌い慣れた自分の作った歌をそのままに、歌っていた。普段は着ないような地味な服を着て、帽子を深く被って、派手な金メッシュが目立つ長い髪も顔も見えない状態で歌を歌えば、誰もが目の前をするすると無感情に通り過ぎていく。色々な靴の種類があるんだ、と自嘲気味に歌を歌い終えると、その人は黒の、いかにもOLですと言わんばかりの少し低いヒールのパンプスを履いて立っていた。ただただ、すらりと伸びた足首が綺麗で、その人が自分の歌を初めて立ち止まって聞いてくれていた人間ということを理解するのにはある程度の時間がかかった。深く被っていたキャップを上げて、視線を合わせると、にこりと、笑う。たった、それだけ。

「可愛い歌ですね。可愛い、って失礼でしたか、」
「いや、」
「歌詞とかメロディとか、自分で作られたんですか」
「ん……、あー、はい」
「わたし、路上で歌ってる方に声かけるの初めてで、」

 その時、自分の心臓はばくばくと波を打っていた。ギターを持ったまま、バンドマンだとかディビジョン代表だとかそういうレッテルのない自分の歌声が、歌詞が、メロディが、ひとりの人間の足を止めたのだと思うと、それは、また、単純に凄いことだと思えた。コンクリートジャングルなんてよく言ったもので、都会の人間は冷たい。一般人に扮した自分の歌なんか聞きもしない。けれども都会ではそれが当たり前で、何気なく、今日はたまたま早く巻きで上がったから久しぶりに初心に返ってみようという、なにげない感情の揺れが、彼女との出会いを作ったのだと思うと、自分はどうしてもなにか奇跡に似たものを感じざるを得なかった。一目惚れだとかそういうわけでもないのに、自分と同じようにしゃがみ込んで、くたくたになってしまっている鞄を膝の上で抱え込んで、目線を合わせて、他にはどんな歌を歌うんですか、と尋ねてくる目はきらきらと純粋で、とても綺麗だった。既に、いつもの"余所行きの自分"を装うことは、すっかり忘れていた。

「他、は、ラルクの、カバーとか、自分で作ったのとか」
「聞いてみたいです、あの、他の歌も」
「……あ、じ、自分」

 夢を抱いて路上で頻繁に歌ってる人間じゃないんです、ヴィジュアルバンドのボーカリストやってるんです、なんならナゴヤディビジョンのレペゼンなんです、なんて、不粋なことは言えなかった。寧ろ、言いたくなかったのが本音なのかもしれない。少しだけ、考えた事がある。アーティストと言うレッテルを剥がしたときに、自分を好いてくれる人間がどれだけいるのかと。学生時代のことを思い出して、苦くて青い思い出として舌で転がせるのも、今の仲間がいるからだと思う。

「いつも歌ってるんですか、」
「や、あの、自分、いつもは別の仕事をしてて、だから、」
「でも歌、好きです、一曲だけ聴いて言うのもなんですけど一目惚れみたいな。CD出たら欲しいなって、くらい」

 ひどくたどたどしい言葉と手を動かす仕草は、自分の名前を知らないから、表し方が分からないのだと今更ながらに気が付いた。いつもならすぐに自己紹介をしてお仕舞いの筈なのに、どうして今はこんなにも歯車が噛みあわないのだろう。そして、その噛み合わない感覚をまだ、ずっと味わっていたかった。反射的に弦を弾くと、また、淡い音が鳴る。足を動かさないのはやっぱり自分と彼女だけだった。何も答えない自分を気遣ってか「もうおしまいですか、」と少し残念そうに声を落とす。本当に残念そうだったら良いな、という自分の願望がそう聞こえさせたのかもしれないけれど、それはやっぱりどこか残念そうな声だった。自分はまだ終わらせるつもりも無かったけれど、この冷えた路上の中で語りつくすには足りないほどの言葉をただただ持て余していた。いつもの調子が出ない。きっと、自分の歌が彼女にはまったのだろう、と思うと、それはまた特別な感慨を含められていて、気が付いたら「じゃあ、ひとつ」と自分は言って、勝手にギターを弾き始めていた。
 その日は、自分でもなんでだかわからないけれども、ずっと昔にピアノで作った歌を自分は勝手に歌っていた。多分、後ろのギターの音ははちゃめちゃだっただろう。ただ、自分の歌を真摯に聞く視線はどの視線よりも心地良く、この歌を歌いたい、と思ったのだ。

「世界中の人を敵に回してもいいくらい好きな人に、将来出会えたら、どうするんですかね」

 歌を聴き終えた彼女はそう呟いた。

「……きっと、今度は離さないっす、」

 自分が小さな声で答えると、良かったです、と言って彼女は立ち上がった。鞄の浮き上がり方を見るとやけに荷物が入っているようだ。自分は滑稽と分かっていながらギターを抱えたまま、彼女の腕を掴んでいた。帽子がまた浅くなって、ああもう、人通りが多いからばれるばれないなんて、もうどうでもいい、そう思って自分は「また、今度ここで歌う前に、新曲出来たら聞いてもらえませんか」と告げた。薄くまぶたにラインの引かれた目が二度瞬きをして、それから、大歓迎です、と 彼女は微笑んだ。
 名前も仕事も住所も今までの人生もなにもかもを知らない。けれど、自分はきっと、この人を絶対に離さない。