なにも知らない



 立ち上がったシリウスが、そのままお風呂に入り、その後すぐ眠るのだとなんとなく、けれど直感的に分かったから、わたしはその後ろを追いかけた。
 お風呂上がりにべたべたと触れると嫌がるからこれだって気遣いだ、と内心で言い訳をしながら片方の腕を引く。それだけで意図をくみ取った顔が嬉しそうなのか嫌そうなのか分からないくらいにはシリウスの顔が好きで好きでどうしようもない。あんまりにも綺麗だから、何をしていても感情が読めなくて、でも割とはっきり言葉にしてくれるからまだ一緒にいられるのだ。ああ嫌なのか、とか、ああこれは良いのか、とか、それを声のトーンや、息の仕方で判断する。顔を見てもきっちりとした二重だとか、気を付けていているらしいけどすぐ落ちる顔の肉だとか、薄い唇の曲線だとか、瞼の薄い皮膚の形だとか、全部がわたしの判断能力をなくしてしまう。
 もしわたしがヴァンパイアか何かだったら合法だったのに、と思いながらシャツのボタンを外すシリウスの二の腕にかじりついた。痕をつけるなとだけさんざん言い含められているので、それだけを気を付けて歯を立てる。片方の肩についた黒子を指先で何度も押し、肩についている肉の薄さに怯えながら腕を伸ばし、背伸びをした。歯を立てるというよりも唇で二の腕と肩を食む様にしていくと、動物を手懐けるみたいにシリウスがわたしの背中をゆっくりと撫でた。

「首取れんじゃねえの」
「じゃあかがんでよ」
「俺の身体が痛くなるだろ」
「ならわたしが頑張るしかないじゃん」
「こっち来い」

 シリウスがわたしをソファの上に引っ張って放り投げたから、ころりと寝転がってしまう形になる。半分シャツのボタンを開けた彼の胸元に金色の細いチェーンのネックレスがぶらさがっていて、手を伸ばした。冷たくて、小さくて、心許なくて、けれど人目を惹く眩しさと高級さがあるペンダントトップは、シリウスそのものみたいで触るだけで笑顔がこぼれてしまう。ネックレスを触ってにやにやへらへらしている気色の悪い女を押し倒しているシリウスは、光景に違和感を覚えるでもないままシャツのボタンを手際よく外した。
 わたしはネックレスから手を離して両手で両肩に手を置いて、何度も確認するみたいに肩の流れを確認するように触る。すべすべとしていて、体温はちょっと高くて、首にまで手を伸ばすと、首の長さと、浮き上がる血管に、ああ生きてる、と分かった。
 わたしの想像じゃなくて、目の前にいてシャツを脱いで、きちんと腹筋の割れたお腹を持っているシリウス。見えないけれど肩口にわたしの唾液がついているのかと思うとたまに申し訳なくなりながらも、別にやめることはないから申し訳ないと思うのも無駄だと気付いて止めた。摘まめなくなったお腹の空間みたいなのを指先で探って時間を潰しながらシリウスの顔を見上げた。何回見ても何時間見てもどの角度から見てもびっくりするほど飽きない。いつもぶらさがっている金色のピアスが外されていて、そっと空っぽの耳朶に手を伸ばすと、小さな穴の感覚が指の腹に感じられた。

「変なとこばっか触るな」
「そう?」
「こんな女見たこと無い」
「シリウスがわたしと付き合ってることが一番不思議だけどね」
「俺も」

 本当は香水の匂いも部屋のどこかしこに焚かれたお香や芳香剤のなんだかよくわからない匂いも、纏わりついて離れない上に身体に合わないし、好きじゃない。シリウスの首筋に顔を埋めると感じられる薄っぺらい汗と身体の匂いをかき消してしまうから、もっと嫌いになる。それでも嫌いなそぶりは見せない、好きな振りもしないけれど。
 ただ抱き着いて、シリウスはわたしを脱がせるわけじゃなくて、ただわたしの顔を眺めて、髪や頬や首を撫でる。付き合ってる、なんて対外的には言うけれど、本当は動物を一匹飼ってみただけのつもりなのかもしれない。責任感が強いから、一度飼った動物を捨てるのが忍びなくて面倒を見ているだけで。学生時代だって猫の一匹ふくろうの一羽も飼っていなかったけれど、それは彼が実家を忌避していて外部と連絡を取る必要性を感じていなかったからなのだと付き合ってから気づいた。
 まぁペットにしては料理もうまいし洗濯と掃除もそれなりにするし、お遣いだって出来るからいいペットだと思う。でもそういうことを言うとシリウスは「冗談でも止めろ」と本当に本当に凄く怖い顔でわたしを見て声を出す。お腹の底から出された低い声は未だに耳の奥に残っていて、けれどわたしよりシリウスの方が傷ついていたのだとも分かっている。だからそういうことは思っても、考えても、言わないようにしている、でもまだそう思っている。だってそういう風に考えておけば、仮にいつかシリウスに振られた時も、わたしが要因で振られたんじゃないと言い訳できるからだ。ペットより人間のかわいい彼女のほうが欲しいよね、とか、そういう言い訳。
 シリウスがわたしの身体をソファの肘掛けに凭れさせるみたいに持ち上げて、また頭を撫でる。すん、と髪に顔を近づけて匂いを嗅いだ後で、小さく首を傾げた。

「なんで違うんだろうな」
「なにが」
「同じの使ってんのに、」
「香水つけないもん」
「じゃあキリエの匂いか」
「そういうことじゃない?」
「俺もこれ欲しい」

 子どもが母親に強請るみたいな声でシリウスがそう言って、わたしの肩甲骨と首の後ろの出っ張った骨を指で撫でる。反対の手で、わたしの片方の手を掴んで、指を絡ませたまま、器用に。「あげたいけどあげられないね」と言うと、「だからここにいるんだろ」とシリウスが言った。そういうことか、と納得した後で彼の手を握り返す。
 お互いのぬるくなって僅かに湿った手を絡ませたまま、シリウスが髪を梳くのにも背中を触るのにも飽きたその隙間を縫ってまた身体を倒す。黒子の下の、まだ一番やわらかい肉のあるところに半開きにした唇を押し当てて、その後に軽く噛みついた。やわらかいシリウスの皮膚の温度を唇で感じて目を閉じると、あきれたような、乾いた笑い声が斜めからゆっくり響いて回る。
 まるで香水を食べたみたいな空気がお腹の中に入ってきたあとで、彼の胸の辺りに頭を押し付けると、どくんどくんと心臓の音が聞こえた。いつも同じペースで鳴る彼の心音を少しでも多く聞く為に目を閉じて、強く耳を押し当てる。
 また、シリウスがわたしの髪を持ち上げてさらりと落とした。どっちも動物みたいだ、でもシリウスの方が理性的なのだろう、澄んだ灰色の瞳を見て、にやりと笑った時に見える可愛い犬歯を見て、わたしも真似して笑う。
 全然似てない、といつもシリウスに言われるへたくそな笑顔を作って、動物じみた愛情表現で縋っているのを誤魔化して、また夜を引き延ばすのだ。