涙の階段



 これしかない、と透明の深いガラス皿に、ヘタだけ取られた苺がたくさん入っていた。
 テーブルにお皿がぶつかったコトリという音だけが静かすぎる部屋に反響している。お皿の中に添えられた細い銀色のフォークと、水滴のついたたくさんの真っ赤な苺はむせ返る程の匂いだった。
 幸福の象徴みたいにショートケーキにはひとつだけ鎮座していたり、ホールなら囲う様に豪奢に並んでいるのに、これはただ乱雑だった。豪華なものをただ雑多に重ねるとうるさくて、どうしてか惨めに見えるのはなんでなのだろうか。その現象のかなり小規模なことがこのお皿のなかで起きている、つうっと上の方の苺の表面をまた涙みたいな水滴が伝う。

「飯食ってんのか」
「食べてる、そっちこそ、冷蔵庫にそれしかないの」
「あるわ、すぐ出せるもんがこれしかなかったんだよ」
「そういうことね」

 「じゃあ、遠慮なくいただきます」と言った後で銀色のフォークに手を伸ばすと、冷たい触り心地、鋭利すぎる先、手に馴染む形に時間が引き戻されたような気がした。
 何故目の前に洗っただけの苺が出されたのか分からないまま、ネルシャツの襟がくたびれているな、と彼の首元を見つめる。中に着ているTシャツは見たことがなくて、そういえば玄関にある靴も見たことがないものだった。テーブルに置かれている携帯はいつの間にか最新機種に変わっているし、画面はひび割れていない。
 何も知らない、何も知れないはずなのに、一番上の苺にフォークを突き立てる。小さくころんと丸い苺はやけに甘ずっぱくて、わたしが奮発して買っているものよりもずっとはっきりした味だった。美味しい、という感情を単純に抱いたまま、無言で苺を突き刺して、噛み砕いて、飲み下す。
 肘をついて携帯を触ることもなく、シリウスはわたしを見ていた。普通なら早く帰って欲しいはずの女に食べ物を出す彼の事をわたしは最初から最後まで分からないままで、これからは会うこともない。家族でも、親戚でも、友人でも、同級生でもない。どうして付き合ってしまったのだろう。
 赤すぎるほど赤い苺の数はみるみるうちに減っていき、口の中は甘酸っぱく、どんどんと痛みすら覚えてくる。彼がわたしにキスするときの手を置く場所、頬を包む感じと大きな手のひらに包まれてる心地良さと、目が合ってちょっと目を細める顔。ひとつたりとも忘れたことはなく、壊れた機械みたいに繰り返し再生して、思い出して、もう二度と手に入らないと理解する。今だって別の女の子におんなじようにそうしているのだ、あたたかい手で触れて、冷えた足をベッドで絡ませて温めて。
 片方が愛していても、片方がそうではなかったら、関係は成立しないし、当たり前で、否定も抵抗も出来るわけがない。縋りつくことは出来ないし、シリウスがこれ以上わたしを嫌いになることにも、嫌な思い出、手こずったなんて思って欲しくなかった。
 どんどんと胃が重たくなっていくぎりぎりのラインで、苺は残り3つになり、ひとつ食べて、そのあと2つを連続で口に入れた。普通に食べる時間の半分ほどの速さで食べきったあとでわたしは息を吸い込んで、鞄と一緒に持ってきた紙袋に手を伸ばす。

「ごちそうさま、今日一日分のビタミン取った気がする」
「あー」
「これ、ごめんね、わざとじゃなかったんだけど」
「いーよ。わざわざありがとな」
「いや、全然。……なんか、苺ごちそうになりに来ただけみたいになっちゃった」

 付き合いたての頃に彼に強請って貸してもらったCDと、映画のディスクが入った紙袋をテーブルに置いて立ち上がる。ハンガーにかけるでもなく椅子に半分に畳んでかけていたアウターを滑るように手に取って羽織った。紙袋の中身を確認するでもなく、シリウスはぴったりと立ち上がってわたしの後ろに立っている。
 苺の匂いがした。自分から、シリウスの指先から。全て気のせいなんだと思うけれど、泣いているみたいな赤い苺から垂れた水滴、フォークを苺に突き立てた時、やっとわたしが怒っていることに気付いて、でも遅かった。不当に、唐突に、愛情を拒絶された理不尽さみたいなもの、まだ好きなのに、もう好きじゃないの?、そんな不当なことがあるなんてと。なのにわたしは怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ茫然として、しょうがないと言って頷いたのだった。

「シリウス、彼女出来た?」
「出来てねえけど」
「やっぱりわたし、シリウスのこと好きみたい」
「……」
「だからなんだってことでもないけど」

 紙袋のなくなったわたしは軽く、小さな鞄だけ持って玄関の前でもう持っていないこの部屋の鍵について考える。嫌われてもいい、好きだと言うことを言わないまま終わることの方がずっと嫌なのだと分かってしまった。だからなんだってことでもないけれど、やっぱり好きで、やっぱりむかつくし、やっぱり寄りも戻したい。爪も、髪も、指も、横顔も、耳も、悪戯を思いついた時の顔も全部、まだ、好きだった。
 振り返って顔を見たら、わたしは笑えるのか、泣けてくるのか、まだ分からなくて、でもどちらにしろ好きであることには変わりない。もう一度抱きしめて、絶対に叶わない願いをまた口に残った苺味の唾液と一緒に飲み込んだ。

「俺も」
「え」
「もっかい、やり直してほしいって言ったら、怒る?」

 固まったままの身体で、シリウスの顔を考えながら、好きなこととやり直してうまくいくことがイコールでないこともすぐに分かった。怒っていた。そして、そんな怒りが吹き飛ぶ位、ただもっと、一秒でも長くシリウスのものでいたかった。

「ばかじゃん、うまくいくわけない」
「……キリエは厳しいな」
「それでも、シリウスと一緒に、」

 それでも、とシリウス、の間に声が震えて、一緒に、の間に視界が途端に水っぽくなる。肩にかけたちいさな鞄が揺れて、シリウスの足だかどこかにぶつかって、こんなに強引に身体を引き寄せられたことはなかった。
 ごめん、とシリウスが聞いたこともないくらい苦しそうに謝ったままわたしの首筋に顔を埋める。ごめんと愛してるがどうしてつながるのか分からないけれど、やっぱり言葉はきちんと正しく繋がってしまう。
 痛いほど抱きしめられて、願っていたのに、苦しくて、悲しくて、でも同じくらい、いや、それ以上にやっぱり好きで求めていた。
 少し前まで慣れるほどに嗅いでいたシリウスの匂い。何も変わってない香水とか汗とか全部が混じった特別な匂いがして、見慣れたシャツの背中を強く掴む。
 「きっぱり別れさせてよ」、吐き出した声にシリウスが「先に言ったのキリエだろ」と吐き捨てるように笑って言った。