彼にやっと掴んでもらった手は、自ら離した。彼と共に過ごした日々はとても短い月日だったけれど、わたしの今まで過ごしてきた時の中で確かに一番だと言い切れるくらいに幸せを感じられた。だから、無性に怖くなった。怖くなって、逃げたのだ。わたしたちはまだ若いけれど、平和とは決して言えない世界で、この先ずっと一緒にいられる保証も確約も義務もない。明日には彼の心臓を緑色の閃光が貫くかもしれないし、そうなった時にわたしが後を追わないとも言い切れない。だから、なんて言うか、つまり、わたしがただひたすらに弱かっただけなんだ。ごめんね。
わたしには、包み込むあなたの腕は温かすぎました。
意味わかんねえ。まっすぐわたしの目を見てシリウスが言い放った言葉は、静謐を保っていた寒々しいこの部屋にとてもよく響いた気がした。けれども、いつもの自信たっぷりで力強い彼の声とは少し違って、なんだか弱々しくて寂しく感じた。わたしはきっと悲しいくらい静かな表情で彼を見ているのだろう。けれど心の中はそんな表情と全く釣り合わなくて、まるで姿くらましに慣れていないときのようにぐちゃぐちゃぐるぐる、とにかく眩暈がして今にも吐いてしまいそうなくらいたくさんのものものが心の奥底で渦巻いているような感覚だった。だから、なにも言わないんじゃなくて、なんにも言えないまま、苦しそうに顔を歪めるシリウスをずっと見つめていたのだ。
「……俺といんのが苦痛なわけ」
「ち、ちがう、の」
シリウスはそんなわたしの答えに眉間の皺をさらに深くさせた。ここでそうだと頷いていればよかったのかもしれない。けれどわたしにそんな強さはなかった。弱いからこそ、こんな結果に至ってしまったわけで、ここで嘘を吐いて、彼を傷つけて、自分も傷つけることなんて到底できそうになかった。
「だったら、なんだよ。なんか不満があるんだったら言えばいいだろ」
不満なんてない、ないんだよ。そう思ったし口にしようとしたけれど、シリウスの言葉は悲しさやもどかしさと共に少しの苛つきを含んでいたので、僅かながらでもそれに怯んでしまったわたしは口に出すこともできなかった。もっとも、黙っていたって苛立ちは増すばかりだということは予想できたけれど。たぶんどちらにしろ、それは変わらなかったから、だからわたしは口を開かない方を選んだのだ。
「全然わかんねぇよ。マジで意味わかんねぇ」
「……うん、ごめんね」
「んだよ、さっきからごめんごめんって」
たぶん、わたしは、今までどうでもいい、まともではない恋愛しかしてこなかったんだと思う。そう思わせるくらいにシリウスは大切な存在で、彼が発する言動ひとつひとつがわたしの機能を著しく低下させることも、それを普段通りに修正することもあまりに容易い。彼はそういう人だ。あまりにもそれが絶対的すぎて唯一無二で、まるで神様みたいだなあなんて思って、ふと落ち着いて冷静になったとき、そんな自分に疲れてしまっていることに気づいて、なにより、ここまで溺れてしまっている自分に対して、どうしようもなく恐怖を感じた。シリウスのことを好きすぎて、見えない先がとても怖くなったのだった。
ぐっと距離を詰めたシリウスは勢いよく、けれどひどく優しい手つきでわたしを抱き締める。慣れた心地良さと、どうしようもなく安堵を誘う彼の匂いに胸がきゅう、と撓るけれど、同時にとても悲しくなった。思わず目頭が熱くなって涙が込み上げてきて、それをぐっと我慢してシリウスから離れようとするけれど、突っぱねるために胸についた腕には力が入らない。
「俺が、俺の納得する理由がねえんだったら、絶対離さないからな」
唸るようにそう言った低い声はとても力強くて、恐いくらいだ。けれども、わたしにとってそんなのはなんの関係もない。彼をいとしいと思うことにはなんの変わりもなかった。それよりも、抱き締めるシリウスの腕が優しすぎてどうしようもなくなった。いっそうのこと、このまま呼吸ができないくらいに締め付けて殺してくれたらいいのに。そうすれば、わたしが先の見えない不安に苛まれることなんてなくなるのに。
静かに冷たい空気だけが流れている中、彼が少し深く息を吸ったのを感じる。どんな言葉を紡ぐのか、とても興味はあるけれど、あまり聞きたくはない。だって、どうせ泣きそうなくらい寂しい声で言葉を紡ぐんでしょう?置いていかれることをひどく嫌う彼の声。きっとそれは少なからず、わたしの意志を根底から揺らがせることだろう。
「……俺のこと、もう好きじゃなくなったわけ」
「 ううん、」
包み込むあなたの腕は、やっぱり、わたしには温かすぎた。