太陽の胤



 こんな燦々とした陽射しのなかを、サマーパーカーを脱ぎ捨ててシリウスは意気揚々と海辺へ突き進んでいく。
 正直、理解が追い付かず、適当に持ってきたレジャーシートの上に座って日傘を差して、日焼け止めを何度も腕に塗りたくりながらめいっぱいに夏を楽しむ大きな背中を眺めていた。犬は喜び庭駆け回る、という単語がぽんと脳裏に浮かんだけれど、よくよく考えてみればこれは冬の歌だった。ホグワーツの冬はそれはそれは厳しい極寒の地になるものの、ロンドン含むイングランド地方と比較するならば日本の方がよっぽど寒いし、わたしは日本でも北東の雪国出身だから、そういうところからも寒いより暑い方が嫌だなと感じてしまう。眺めているだけでもありえないくらい暑いのに、日除けもせず直射日光に当たっているなんて信じられない。正直に言ってしまえば暑いのは嫌いで、水着だって着たくなかった。日本は高温多湿だから、暑さと同時にじっとりとした息苦しさも覚える。素肌が出ているぶん、日に焼ける部分だって増えるし、堂々と自信を持って人に見せられるようなきれいな身体でもない。一応目で追っていたつもりではいたけれど、いつの間にか視界から消えていたシリウスが傘の影になっているのかと思い少しだけ日傘を持ち上げると、彼は案の定目の前に立っていた。

「なーにしてんだよ、
「……シリウスのこと目で追ってた」
「こっち来いよ、泳ごうぜ」
「いいよ、焼けるし暑いし」
「海入ったら涼しくなるから、来てみろって」

 シリウスがわたしの手を包み込んで、熱のかたまりみたいな手が触れた瞬間、ぽろりと手から日傘が離れた。彼の手は魔法みたいに、結局わたしの意思なんかすべて無視して、自分のテリトリーに滑り込ませてくるのだ。それに本当にわたしが嫌がっている、なんて本人は微塵も思っていないし実際そうなのだから仕方がない。日に焼けるのも水着も嫌だけれど、シリウスが海に飛び込んでいく寸前まで着ていたパーカーを渡されて、おいでおいで、とわたしの手を引く彼についていかない選択肢なんて果たして地球上に存在するのだろうか。

「怖くねえから」
「別に怖がってない」
「知ってる」
「……めちゃくちゃ暑いじゃん、うそつき」
「ええ、なんで、気持ちいいだろ、ほら」

 ざぶざぶと音を立てて足元から徐々に膝まで水に浸かると、途端に重力に足を絡め取られたように歩くのが難しくなってくる。ぷかり、と浮いた身体をあやすようにシリウスがさっと手を伸ばして、そのままぴったりくっつくように引き寄せられた。思っていたよりも彼がわたしより深い場所に移動していたことにも気づかず、引き寄せられたときにはもう足がつかなかった。彼はまだぎりぎりついているのか、ただ器用に浮かんでいるのか、すぐには判別がつかない。ただ、わたしが羽織っているパーカーは既に肩までびしょびしょに濡れている。
 ぷかりと浮かび上がるわたしを抱き留める彼の動きを見ていると、やっぱりもうシリウスも足がついていないらしく、犬かき、というよりはラッコとラッコの持っている貝殻のような状態で浮かんでいて、なんだか少し間抜けだ。だって、めちゃくちゃ暑いし、浜辺にも人はそこそこいるし、こんな深いところでぷかぷか浮かんでいる人なんて、と思いつつ周りを見渡してみると意外と人がいることに驚いた。

「結構みんな海好きなんだね」
「……今更?みんな好きだろ、気持ちいいし」
「くすぐってないよね」
「え、無意識だった、してたか?」
「じゃあ、気のせい」

 腰のあたりをふわりと包むようにシリウスが掴んでくれているから、海もあまり怖くない。恐ろしいことにわたしたちなんて大したことない、と思うくらい飛沫を上げて泳ぐ人も、浮き輪みたいなのを持ち込んでいちゃいちゃしているカップルもたくさんいて、夏の魔法に対しての驚嘆を覚える。普段街中を歩いているときはあんなに無遠慮かつ痛いほどの視線が突き刺さるというのに、そんな彼ですらも人目を浴びることがないくらい、だれもわたしに、わたしたちのことになんて注目してなくて、ただ太陽だけが平等に眩しさを与えてきている。すこしばかり水に浸かっていると、それだけで暑さが少しずつ和らいでくるのは事実で、今度はここから出たくなくなった。サングラスなんて所謂イキったカッコつけたい人がかけるものだとばかり思っていたけれど、サングラスでもないと目が痛くなるほどの陽射しに少し目を細める。けれど、暑さに関しては砂浜にいるより随分とマシだ。家にいるときと同じくらい、いや、それよりもずっと近い距離でシリウスの端正な顔が目の前にあって、彼が濡れた手でわたしの両頬をそうっと包む。

、すげえ笑ってる」
「……そんなことない」
「あぁー……最高だな」
「シリウス、」
「なに?嫌だった?」
「……いちいち訊かないでいいってば」

 ぷかぷかと浮かんだまま、シリウスがふとやわく微笑んで、汗と海水で張り付いたわたしの前髪を指先で払ってくれる。そのあと、ざっと自らの前髪をかき上げて、太陽の陽射しなんて忘れるくらい綺麗に眩く笑うものだから、思わず息が止まった。ばかみたいに呼吸が苦しくなって、息が詰まった瞬間を目敏い彼が見逃すはずもない。
 一番大好きで、一番腹の立つ、美しい獣のような笑顔を浮かべたシリウスは呼吸があやふやなわたしの唇に自分の唇を押し付ける。海水も、太陽も、人の目も、ぷかぷかと思い通りに動かない自分の足のことも忘れて、ただがっちりと片腕で腰は固定されていて、反対の手もわたしの頬を絶えず濡らしながら同じくがっちりと掴んでいる。まだまだふやけそうもないらしい彼の指先の感覚を確かめながら、唇がゆっくりと離れていく。
 どうせお互い一言目は決まっていて、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ後、重なった「しょっぱい」という声にふたり目を合わせて吹き出すように笑った。