悋気



「ねぇ、どうして、一昨日のシリウス、あんなに帰りが遅かったの?」

 さめざめとした夕方をだらだらとした情事を重ねて乗り越えた夜、<キリエはニンフみたいにあざとく瞳を伏せて、静かにそうこぼした。真白のライトを浴びた横顔は影が深く、彫刻のよう。
 すっかり汗をかいた脇をとりあえず湿らせたタオルでぬぐいながら、俺はまずマルボロに手をのばした。
 返す言葉を探しているけどもなかなか綺麗に当てはまるものが見つからない。意識しているせいか仰々しく、まるで演じるみたいになってしまう動作を、睨みつけてくるキリエの表情は険しい。
 きっと、キリエの中では俺の答えは何なのか決まっているのだろう。そう思うと何を返してみたって意味がない気がしてきた。どうせ素直に本当のことを言ってみたって、「そんなの嘘だ」って大きな金色の瞳に、涙を浮かべるだけなのだろう。想像すると不思議と自分の中の加虐心が煽られた。

「……なんか言ったらどうなのよぉ、」
「なぁ……キリエ、お前俺に何て返してほしいわけ?ただ飲んでただけって?……それかさぁ、女だよって?なぁ、どうなの?」
「……ぁ、ひど、い」
「泣くなよ、やましいことはしてねえよ?」
「だって一昨日のシリウス、すっ、ごい甘ったるい匂いしてたんだ、もん…そんなの、明らか、じゃん?ね、わたしに飽きたの?気に食わないことでも、言っちゃった?」
「……キリエ、」

(あ、泣くな、って、ああ)

 今にも溢れそうだ、というように目の淵ぎりぎりまで涙を潤ませながらキリエは懇願するように俺を見る。ひとつのまばたきでポロ、としずくがひとつ落ちた。悲しいけれど、俺はつくづくキリエを泣かせることに長けている。
 感情のダムが壊れた様な切羽詰まったキリエの顔は痛々しくて、そこまでするつもりじゃなかったと後悔が俺を襲い、はやく何か言ってやらないと俺を焦らせる。でも焦れば焦るほど、返すべき言葉は見つからなくなっていった。
 こういうときにあきれるくらい、俺はいつも下手くそだ。やさしい言葉が思い浮かばない。言えば良い言葉が何なのかわからない。
 真っ白、そして思考停止だ。


「……っ、キリエ、違うんだって!」
「んん、嘘……」
「嘘じゃねえ。あのな、一昨日会ってたのは、ドロメダだ!!」
「……え?アンドロメダ、さん?」
「おう。なんなら今電話してもいいぞ?昨日までこっち来てただろ、って」
「……う゛ー」
「これは、ほんとだから。泣くなよ……、」
「なんで、言ってくれなかったの、わたしも会って良かったじゃない」
「……そ、れは、」

 ついまた、言葉に詰まってどたどしくなる。言ってやりたい、のに言わなくても良いことのように思えたから。昨夜、ドロメダにキリエとの関係をカミングアウトしたことを、どうやって伝えれば良いのか。ああ絶対に、これはキリエへと伝えない方がいい。
 キリエが魔界の人間であることは、よっぽどのことがなければ言わないでね?とずっと口うるさく言われていたのに、言ってしまったんだから。それはきっと罪の意識と、俺への気づかいだったのだろうと思う。小さい頃から魔界と人間界を行き来したりして、化物って言われることも少なくなかったよ、とそっと教えてくれたキリエは俺の何倍も大人。きっときっと、何倍もいろんなことを経てきたのだろう。


「……また言えないの、」
「……キリエ、好きだ、愛してる」

 ずるいとは思うけど、言わないと決めたのだからキスに逃げる。キリエは嬉しそうだけれど、どこか怪訝で疑うような表情。
 あまり気にするようにはせず、舌をぐっと咥内に侵入させる。煙草のにおい。お互い割とヘビーめなスモーカーなのだからしょうがない。甘やかすような、フラットなキス。ついでというようにおもむろに乳首を触れば、キリエは鼻を抜けるような嬌声を上げた。それが合図だったというように熱い舌がねっとりと俺のものに絡みつく。
 単純で簡単なやつ、と思ったけど、本当は俺の言わんとしたことをうっすらと感じ取ってくれたのかもしれない。言わなくても肌を重ねればわかる、わかってくれる。キリエはやっぱり幾つも俺よりも大人だと思った。
 気がつけば窓の外は藍色を煮詰めたみたいな濃紺と黒色の間くらいな色。夜深い時間特有の静かさ。星がいっぱいいっぱいに空を彩っている。

「……きれいだねえ、お月さま。シリウス、久しぶりにさ、バイクでドライブ連れていってくれない?」

 今夜はとことんキリエの言うことを、わがままだって聞いてあげてもいいと思えた。やさしく頷く。誘ってきた割にはキリエはベッドから動こうとしないから笑ってしまった。月明かりに淡く照らされたつややかな黒髪が眩しいくらいに目を刺す。俺は、そこらへんにあった服を手繰り寄せて、適当に服を着た。
 わざと鍵を鳴らしてから、モタモタしているキリエを急かす。キリエは上目遣いで俺を見上げて、ちょっと待ってよ、と舌足らずな声を出した。準備に時間がかかるくせに随分と優雅なのはいつものことだ。
 窓の外はいつのまにか電灯の明かりがいくつかちらついていて、暗幕みたいな紺と黒。こんな中をバイクで飛ばして走れば、どんなに気持ち良いだろうか、と胸が踊る。相手はいないレース。想像しただけで興奮した。

「二人っきりの、逃避行だって、たまにはいいよね?」


 そうやって得意そうに、幸せそうに口角を上げたキリエが可愛くて、俺はまた思わずその唇に吸い寄せられた。