目が覚めると、リーマスが隣で規則的な寝息を立てていた。
同じ時間に寝入ったはずなのに、と先程見た有触れた悪夢のせいで動きの速くなった心臓を抑える。どっどっどっど、とハイスピードで動く心音を感じながら、見慣れた照明の輪郭を何度もなぞり、ベッドの感触を掌全体で確かめた。リーマスの規則的な寝息のことはいつの間にか頭の中からなくなっていて、ただひたすらに先程の事が夢であることと、隣に彼のいるあたたかいベッドこそが現実なのだとぼやけた頭に何度も繰り返し叩き込む様に覚えさせる。パトローナスを呼ぶとあの眩い銀色で彼を起こしてしまうだろうから、心のなかでちいさくリディクラス、と呟く。回数を数えるでもなく撫でていたシーツに触れるのを止め、小さく、長く息を吐いて寝返りを打とうとした時、ぼやけた声が聞こえた。
「……起きたの」
「起きちゃった」
「なに、どうかした」
「吸魂鬼、に、追いかけられる夢を見たの」
「……うん」
もう学生でもないのに情けない、とは、彼は決して言わない。マグルの子どもが怖がるようなゴーストと、ディメンターはわけが違うのだ。濁点のついたような彼の「うん」に沈黙で返すと、さらに「ううん」と濁った声を出しながら、リーマスが大きくベッドの中で伸びをした。ベッドが少しだけ揺れて、彼のベッドサイドに置かれた照明の紐が引っ張られる。かち、という生活に馴染み切った音と共に、生活の塊である部屋が明るく照らされると、まるでこちら側が夢のようにも思えた。あまりにも唐突に、はっきりと見えたせいだろうか。片目をこすったあとで、ゆるりと伸びをしたリーマスがベッドから降りて、真っ直ぐに部屋を出ていく。起こしてしまったせいで機嫌が悪い、というようにも見えず、ただ後を追うようにまだ境目にあるような冷えたフローリングを進んでいった。時計は深夜の四時過ぎを指しており、外はまだ明るくなる気配を見せない。冬はいつも鼻がつんとして、暗い時間が長くて、その重たい空気みたいなものに身体が単純に引っ張られてしまいそうになる。マグル用の家電量販店で買った加湿器の音がやけに強く聞こえた。キッチンに立っているリーマスが、寝起きとは思えない素早さでこちらを向いて、でも明らかに寝起きの顔で目を細める。
「ココア飲むでしょ」
「飲む」
「今作ってるから、ちょっと待ってて」
「なんでココアなの」
「え、寒いし、落ち着くでしょ、甘いしさ」
休暇中の学生でもあるまいに、リーマスは杖も魔法も使わずご丁寧に手作業でマグカップに牛乳を注ぐと電子レンジに押し込んだ。電子レンジの音と加湿器の音だけが響く部屋にふわり、とココアの粉の香りが漂って、沈むように残っている。ぐるぐると一定の速度で回るふたつのマグカップを十秒も見つめていたら、すっかりと飽きたかのようにわたしの目の前にリーマスが腰掛けた。色素の薄い鳶色の髪、二か所の寝癖を気にするように無造作に髪を整えるように触れる。そこまであたたかそうではなく、白いところのない爪は僅かに縦筋が浮き出ていた。ついこの前、お風呂上りにわたしが持ってきたネイルオイルを爪に塗り込んでいた生真面目な横顔をふと思い出す。
悪夢は少しずつわたしの背中から、幽体離脱するかの如くするすると離れていった。なにかを話そうと考えていた筈なのに、それよりも先に牛乳が温まり、彼は素早く電子レンジを開けた。充分すぎるほど温められた牛乳の匂いが部屋に漂い、彼はキッチンに置いてあったタオルでマグの持ち手を包み、ひとつずつテーブルに置く。ココアの粉が入ったジップロックとおおぶりのスプーンがこちらに差し出された。相変わらず、小さなことまでレディーファーストであるけれど、本人にそんな気はないのかもしれない。
いつも飲むことはないそれを手に取って裏面の説明を眺めていると「二杯くらい」と言う声が降ってきた。極度に甘党である彼の声に従うべきか一抹の不安もあったものの、結局は彼の言葉通り、温まって薄く膜の張った牛乳の上にさらさらと二杯分の粉を振りかける。ココアの粉を入れたおおぶりのスプーンの代わりに渡されたティースプーンで膜を破り、ぐるぐると掻き回すと、マーブル模様から徐々に見慣れたココア色としか言いようがない、容易く心を落ち着かせる色と香りが広がっていく。容赦なく二杯より多い量の粉を入れたスプーンをシンクに置いて、同じティースプーンで同じように混ぜていく無防備な指先。
「それ、入れすぎじゃないの」
「これで僕はちょうどいいから」
「適量は二杯なの?」
「いや、うん、でも、二杯でいいと思う」
「絶対甘いでしょう」
「甘い方がいいよ、絶対」
ふんわりと立ち上る匂いは夢よりも夢のように甘く、しっとりと夜の輪郭を包み込む。真っ暗な世界で機械的に点けられた明かりの心細さを救い上げるように、目の前のリーマスがココアを飲んでいた。何度も何度も息を吹きかけて、スプーンでぐるぐると中身を混ぜて、待ちきれないように口を付ける彼の真似をするようにわたしも口をつける。二杯分の粉を入れたココアはやっぱりわたしには少しだけ甘くて、けれど、砂糖の甘さとは違う少し重くてもったりとした甘さだった。まるで行き場を探していた自分の身体をきちんとここが行き場であると教えるような、甘い重みが広がっていく。
「甘い」
「美味しい?」
「美味しい」
「ほら」
想像と1グラムも変わらない、どこか自慢げな微笑みを浮かべたリーマスに「ありがとう」と言ってみると面食らったように彼は「うん」とやけにはっきりと答えてくれた。
悪夢はもう身体のどこにもいない。代わりに血管や身体の隅々、首の後ろにも、耳朶にも、くるぶしにも、染み通った快い甘さだけが身体にある。わたしよりずっと美味しそうに、そしてずっとゆっくりとココアを飲むリーマスはどこかおじいちゃんみたいで、ふわりと甘すぎる息を吐き出しながら、一杯で充分現実に引き戻してくれるココアを飲み干すと「もう一杯飲む?」という声がした。まだ半分ほど残っている彼のマグカップの中身を見つめながら小さく首を振ると、またゆるゆるとリーマスがココアに口をつける。
結局殆ど直っていない寝癖や、温まったせいか少し桃色になった彼の爪のちいさな形をぼんやりと眺めていると、ここが現実だとちゃんとわかる。甘ったるいココアと、猫みたいで、でも猫ではなくてちゃんと眠れないわたしのためにココアを入れてくれる心優しいリーマスと、つんとした冬と、隔離されたあたたかい部屋と、ふわふわの部屋着。また外に出ても、その外という現実の後に戻ってくるこの場所も現実であることが、たぶんわたしの一番の救いだ。
あち、何度目かわからない彼のちいさな声に「かわいいね」と茶化すような言葉を投げかけると、眉を寄せたもののあまり怖くない声で「うるさいよ」と言った。