※現パロ

晴天恣意



 唾液を飲むと焼ける様な喉が殊更に痛んだ。緊張のあまりジャケットの下は変な汗にまみれている気がする。やはり、今日は止めておこうか。左脳の片隅に生じた甘えは物凄い勢いで体内を浸食していく。否、だめだ。心臓が吠えた。
 基本的に穏やかな彼女は臆病な恋人を決して責めない。気体としてからだのなかを流動していた感情が液体となって溢れるまで、液体となったそれが凝縮されて固体になるまで、焦れることも催促することもなく待っていた。時間は存分に与えられていた。胸のうちに隠し持った手帳を開けば隅から隅まで彼女との未来が書き留めてある。今日は、その一頁目に値する。月島基はそっと自らの舌の端を噛んだ。

「どうしたの基さん、怖い顔して」

 そういう彼女自身は普段より呆けた顔をしている。怖い顔は生まれつきだ。幼少期から元来の血の気の多さも災いして悪童と囁かれる程度には人相が悪い自覚はあったものの、就職してデスクワークの割合が増えた途端急激に視力が低下して余計に目つきが悪くなった。胸の内で申し開きを練っていると声を出して笑った彼女がミラノ風カツレツを頬張った。とてもとても美味しそうに。
 彼女はとても魅力的に食事をする。コンビニエンスストアのサンドイッチでも、二ヶ月先に漸く予約がとれたメディアで話題のフランス料理レストランのミラノ風カツレツでも、或いはコンソメのスープでも。彼女は一切の選別なく、とてもとても幸福そうに食事をとる。
 どこぞのグルメなアイヌの末裔の少女も食に精通し拘りを持っているが、彼女の魅力を挙げるとき、上位に挙がる所は例えばこういう箇所になる。生命維持の必要行為に幸福を見出す彼女との生活にはささやかですべやかな光が溢れている。
 年の差もあるし、結婚を決めるのはまだ早計なのではないか。大半の友人はそう言って月島の決意を善意の針で柔らかに突く。生活は決して裕福とまでは言えないし、自らが生活のどこに重点を置いているのかはっきりと把握できてもいない。そんな状態でなぜなのかと問われても、全ての人々を納得せしめる説明の用意はないけれど、乞うべきは彼女ひとりの同意のみだ。では、何故彼女を選んだのかと問われれば、解答は実に明快で単純だ。これは、ただの直感だ。



 発声が震えた。ぽかんと間の抜けた顔をした彼女がフォークを休めてまじまじと月島を見る。自らがものすごく変な顔をしているような気がして、けれどもそれを確認する術を持たずに月島は意味もなく首の後ろに手を滑らせた。背中にいやな汗をかいている。初対面の人間と食事をしているわけでもないのに、奇妙な緊張感だ。クラシックが流れる店内は静かで、周囲の人間が全て自分の一言一句に耳をそばだてているようなそんな感覚にすら陥って、月島は米神をぎゅっと片手で抑えた。給仕の足音がいやにおおきい。学生時代の部活のインターハイだって決勝だって、大学の合格発表だって、就活の最終面接だってこんなには緊張しなかった。唾を飲む音が骨を伝って鼓膜に響く。実に重い沈黙だ。
 はぐらかして、明日へ持ちこしてしまおうか。
 一瞬傾いだ決意を、けれど彼女の瞳が撃ち抜いた。愛だけを胸に秘めて天国行きのバスに飛び乗ったのは自分の意思だ。全ての窓と扉を開いたまま走り出したバスから腕を伸ばして、バス停にぼうっと突っ立っていた彼女の腕を引っ掴んだ。腕をとられてふらふらと走り出した彼女の足が浮く。多少強引でも構わない。彼女を引き寄せて抱きしめるなら今だ。

「結婚しよう」

 月島の決死の告白に彼女は目を丸くする。先程と変わらずぽかんと間の抜けた顔をしている、と思う反面手のひらは汗で湿っていた。多分、人のことを言えた面構えはしていない。眉間にめいっぱい皺を寄せて、彼女が言うところの怖い顔をしているに違いない。彼女はきっと首を縦に振るだろう。自信がある。けれど緊張は仕方がない。彼女の未来を奪うのだ。

「じゃあ」

 彼女が言った。

「幸せにしてもらおうかな」

 彼女は、一人で幸せになることができるひとだ。自らで選択し、自らで責任を負うひとだ。だからこそ、その一言に滲んだ傲慢や怠惰を汲み取ることは容易い。胸に秘めた愛が唸る。彼女が好きだ。これは、ただの直感だ。

「まかせろ」

 約束を交わして、バスは雲の先へと消えていく。
 未来を奪い、愛を散らして、彼女とこのまま天国まで。