彼女は雨女を自称している。豊潤な香りと繊細なこころを持っている彼女に雨女だなんて湿った呼称は似つかわしくないと思えるのだけれども、彼女と会う日は必ずと言って良いほど雨が降っていることを思うとあながち彼女の思い違いでもないらしい。
「あっ」
桐子の悲鳴が小さく聞こえたと思ったら右腕に急な衝撃があった。どうやら歩道の微かな段差に躓いて、その拍子に彼女の左腕と俺の右腕が触れたらしい。大方、路面店のショウウインドウのワンピースにでも目を奪われて足もとへの注意が疎かになっていたに違いない。雨の日だと言うのに、学生の頃のように盛大に転んでその愛らしいワンピースが泥だらけになってしまったらどうするのだろうか。制服でもないし、まして代えのジャージが鞄の中に入っているわけでもないというのに。
「大丈夫か?ちゃんと前見て歩け」
「へへ、うん」
「一緒に入るか?」
左手に持った傘を少し掲げて桐子を誘えば彼女はすぐさま水色の傘を閉じて俺の傘の下へと滑り込んだ。雨だと言うのに土曜日の夜の街は賑わっている。人込みは好きではないけれども特別嫌いでも苦手でもない。雨もまた好きではないけれども特別嫌いでも苦手でもない。けれど桐子と会う予定のある雨の日は幾分か好ましい。雨女を自称するだけあって彼女はいつも柄の違う傘を持っている。そのばかげた無駄なこだわりを目の当たりにするのが好きだ。ああ、まただ、と色とりどりの傘で溢れる彼女の部屋の玄関先に置かれた傘立ての許容量を思うと彼女がどうしようもなく愛しくなる。抱きしめたくなる。
「どこ行く、なに食いたい」
「なんでもいいよ」
「女のなんでもいいは大抵なんでもよくないからな……」
「あ、さすが基ちゃん、よく分かってる」
「そりゃどうも」
先週からずっと洋食の気分なんだよね。そう言って鞄の中から携帯電話を取り出す桐子の左手の薬指にあるべき束縛が窺えないことに気付いてそっと目を逸らした。目ざとい桐子に疑われないようにとそっと自然に彼女の方へと傘を傾ければ右肩が次第に濡れていく。彼女の頬が俺の知らないところで涙に濡れるくらいなら、俺の肩が雨に濡れるくらいどうということもない。
桐子は十年来の親友だ。それ以上でも、それ以下でもない。その認識は共通のものであって、周囲は再三疑うけれども俺と彼女の間に男女の友情を危うくさせるような感情はなにひとつだってない。俺にとって桐子は女である以前にひとりの人間で、彼女にとって俺は男である以前にひとりの人間だ。彼女が俺の知らないところで恋を実らせ愛を知って純情を捧げたと打ち明けられた高校生の時分、微塵も動揺がなかったといえば嘘になる。淋しさも悲しさも憤りも悔しさもあったけれど、それ以上に彼女の幸福を思えば満たされた。ふとした瞬間に彼女のことを抱きしめたくなってしまう俺のこころを周囲は恋だなんだと邪推するけれども、これはどう見積もっても愛情の類だ。桐子の人生を背負うには力不足で、けれど友情だなんてあまやかな響きでは物足りない確かな愛情だ。
「このお店ど?こないだ行ったんだけどお酒おいしかった」
「いいぞ、どこでも」
「はは。基ちゃんのどこでもいいはほんとにどこでもいいからなあ」
「よく分かってるな」
「まーね」
向けられた携帯の画面をろくに見もせずに答えれば携帯電話を鞄の中にしまいながら桐子がくすくすと肩を揺らして笑った。普段と変わらぬ様子でいるところを見ると心痛は幾分か癒えているらしい。可憐に揺れる肩を見下ろして、また彼女のことを抱きしめたくなってしまう。
高校生の頃所属していた柔道部の友人たちとは成人を迎えた今でも交流があってそれなりに顔を合わせるけれども、桐子が二人きりで会いたいと連絡を寄越すときは大抵彼女がひとつの恋を終えたときだ。強がりというわけでは決してないけれども、悪戯に弱っているところを見せたがらない彼女の傷心を悟ることを俺だけが許されているような気になって、失恋に膿んだ心の傷跡をそっと撫でる賢い彼女の指先をそっと握って抱きしめたくなってしまう。だから、酒の美味い店だろうが料理の不味い店だろうがどこでも良い。彼女と肩を並べて向かうのであれば。
恋人でもない女の子に抱く感情にしては不健全だろうか。
けれど、それでも彼女を抱きしめたい。