自分の人生の主役は自分だ、と、よく聞くけれど、わたしもそうだときちんと思っていた、ちょっと前までは。
じっと、歩いている二人の背中を見ているわたしは彼らの世界の所謂モブだ。遠くからでも、背中からだけでも分かる、ふにゃふにゃとした空気はわたしには見せてくれない愛情のこもったそれ。彼の視線の先の相手はその甘やかな視線や、さりげない気遣いに気付いているのか全く分からない。
男女二人ずつにきっちりと分かれて二軒目へ行く間中、多分わたしの隣を歩く月島が声をかけてくれなかったらずっと見つめていただろう。
世界の、宇宙の、この世あまねくすべての主人公は彼だ。履きつぶしたスニーカーも、わたしと遊ぶときには見たことのない洋服とか、全部彼女の為に選んだろうなとか考えてみる。明るすぎる光は夜を強調していて、でもそんな暗闇にも負けない綺麗な横顔がぱきりとした街灯の光で強調されている。王子様みたいではないけれど、わたしにとっては王子様で、あの子にとってもそうだったら上手くいくのにな、と思う。
「なぁ」
「……うん?」
「俺ら、引き離されてるが」
「左足を先日負傷しまして」
「さっきバリバリ歩いてただろ」
反射的に言ったらしい声は月島にしては随分と投げやりだ。唇はほんの少し乾燥していてよくよく見てみると、色もあんまり良くない。わたしはリップを貸そうかと思ってポケットを探ったけど、意外と潔癖症っぽいから断られそうだと気付いて、ただポケットの中でリップを握りしめた。指先で、薬用の安いリップクリームを弄びながら肩がたまにくっついたり、離れたりする二人の背中を眺める。
このままわたしと月島が帰ったら気付かないだろうか。考えて、リップクリームを取りだして、自分の唇に塗った。何度も唇を舐めていたらしく、人のことを言えないくらい乾燥している唇の端が切れたのかぴりぴりと痛む。
つかず、離れず、永遠に二軒目につかなければいいのにとちんたら歩きながら、たまに見える彼の笑顔がわたしの胸いっぱいに広がってあたたかい。
「あいつの事好きなんだろ」
「ああ、うん」
「うん、て」
「でも、好きな人の幸せが自分の幸せ、みたいなところあるから」
「はぁ?」
月島の視線が前を歩く二人に、意味ありげに向かう。そのあとわたしに、「自己憐憫に浸っているヤバい女か」という剥き出しの視線を遠慮なく投げつけてきて、いっそ笑えてきた。
わたしが付き合ったっておんなじように笑ってくれるわけでもないし、好きな人がいるのにわざわざ割り込んで自己アピールしてわたしの方が幸せにしてあげるよなんて言うのも全然見当違いだと思う。彼氏がいなくたって死なないけれど、彼が幸せでなかったら、不幸だったら、死んでしまうかもしれない。アイドルやアニメのキャラクターにそういう感情を持つ人に話すと結構共感してもらえるけれど、その相手が連絡先を知っている生身の友人だと明かした瞬間に皆が手の平を返す。
だいたい月島の不躾な視線に泣いたりしなかったのは、もうとっくに慣れっこだったからだ。だから、人より鋭く厳しく容赦のない瞳でも、もはやわたしの心が折れることは無い、残念ながら。
四人で楽しく飲むことも、月島と話すことも、ガールズトークも、全部好きだ。でも一番好きなのは、がっちりとした彼の肩が笑うことで少し揺れるのとか、視線があの子にだけ柔らかくなるときとか、そういう瞬間。
「よく折れないな」
「そういう顔されたの、月島が初めてじゃないんだなあこれが」
「他のやつにもそんなアホみたいな話してるのか」
「女の子なんて彼氏か結婚か子供も仕事の話しかしない」
「偏見が過ぎる」
「今のは嘘だけど」
月島を見上げると、真顔なのか不機嫌なのかよく分からない仏頂面のままこちらを見ていて、わたしは笑顔だけを返した。
二軒目の店前の信号に先に着いた二人が振り返ってこちらに手招きをしている。どうするべきか、と首を傾げている間に月島が手だけで先に入っていろ、という風に示す。二人は顔を見合わせて頷いて青信号を渡っていった、わたしたちは間に合いそうにない青信号を悠々と。その後ろ姿はカップルというより、もしかしたら兄弟にも見えた。どっちでもいい、「後から二人来ます」とか言ってるのかなぁ、考えていると月島が立ち止まる。
まだ信号は少し先だ、また赤になった信号がもう少しで青に変わりそうになっている。二人っきりにさせてあげようという優しさか、わたしに協力する気でも湧いているのだろうか。黙ったままの月島が急にわたしの手を取る、迷子になりがちな子どもを引き寄せるみたいな、結構な雑さで。お酒が入っているうえに、履いているヒールが細いから、わたしは少しだけよろけて、月島は簡単に腰に手をあてて支えてみせる。
「あいつらが上手くいけばいいんだろ」
「そうだよ」
「そこに割って入りたいとも思ってないんだよな」
「そう言ったじゃん」
「じゃあ俺が今からお前のことを口説いても異論はないよな?」
さっきの月島よりずっとか弱い声で「はぁ?」と言ったわたしの声を聞こえないふりして、月島は大きな歩幅で歩いていく。
なんの異論もない、別に付き合いたいわけじゃない、二人はお似合いだと思う、けれども本当は好きすぎて恋愛の土俵に入るのが怖かったのかもしれない。ただもし仮に過去に戻れるとしても、多分、いや、絶対に今と違う選択肢は選ばないと思う。
月島の手は分厚くて雄勁で、離れそうになくて、迷いなく、全然違う道の全然違う信号を渡って歩いていく。なにか言いたかったけれど、異論はないです、という言葉が自分の頭の中をぐるぐると回って、回って、それの繰り返し。月島の靴音はいつもより賑やかに響いていて、「月島って変じゃない?」と肩口に声をかけると「お前に言われたくない」と返ってきた。今日の月島は正論しか言わないなぁと思ったけれど、そういえば月島は元々が生真面目というか、ちゃんとしたことを言う人だった。
繋がれた手はアルコールのせいなのか分からないけれど、ふわふわとあたたかい。男の人と手を繋ぐのも、彼の話が真実冗談でないのならばこれから口説かれたりする、そういうのも久方ぶりだ。
もし真剣に、いや今も真剣なんだろうけれど、もっと本気を出して口説かれたらわたしは、月島を好きになったり、まいってしまうのだろうか。その時は、あの人の幸せがわたしの幸せ、みたいな一歩引いた感情じゃなくて、もっとなりふり構わない、とんでもない欲望や我儘を曝け出してしまうのだろうか。
夜の街はひどく明るく、ずんずんと、月島だけが迷いなく歩いていて、取り残されたら多分戻ってこられないわたしは月島の手を強く掴む。なにかが変わっていく予感は、怖いほどまばゆく、逃げていた恋愛からも、諦めていた将来からも、どんどんと遠ざかっていく。
月島、呼びかけると、ちょっと振り向いた月島が「なんだ」といつもと同じ不愛想な声で応えて、またずんずんと、進んでいく。離れないようにきつくわたしの手を引いたまま。